雪見だいふく、小梅などヒット商品を連発、重光流「ターゲットマーケティング」の真髄ロッテホテルと百貨店に夢中だった頃の重光武雄

ソウル五輪開催(1988〈昭和63〉年)に韓国・ロッテグループの命運を託した巨大プロジェクト「ロッテワールド」が成功したことにより、ロッテグループは1990年代以降、韓国で財閥としての地位を固めていく。同じ頃、日本のロッテはヒット商品を連発し、悲願だった製菓業売上日本一を達成する。だが、コングロマリット化する韓国ロッテに対し、多角化が難航した日本のロッテは菓子“専業”メーカーの域を脱せなかった。日本のロッテの利益のほとんどを韓国のロッテに注ぎ込むビジネスモデルの結果により、韓国のロッテは日本のロッテをはるかに凌駕する存在となっていく。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

重光主導で80年代にヒット商品を連発

 日本のロッテは菓子の売り上げだけを比較すると、1980年代に入る頃には森永製菓、明治製菓(現・明治)とほぼ互角の勝負をしていた。「ロッテの実力」(*1)として掲げられた78(昭和53)年度の売上額では、ロッテの製菓部門1273億円に対し、森永製菓は1157億円、明治製菓が1752億円となっている。明治の数字には抗生物質など製薬部門の数字も含まれており、菓子だけを抜き出すと1135億円で、この年度の森永は経常赤字だった。

 この頃のロッテは60年代から70年代半ばにかけて立て続けに参入したチョコレート、キャンディ、アイスクリーム、ビスケットが成功を収め、総合菓子メーカーに姿を変えていたが、成長の牽引力であったガム市場は80(昭和55)年にピークを迎え、商品の短命化傾向が顕著になっていた。

 だが、70年代初頭から重光武雄が率先して改革を進めてきた商品開発が80年代に花開く。重光は社長直属の組織として、71(昭和46)年に社長企画室を設け、中央研究所や工場と組んでヒット商品を生み出そうという試みで、詳しくは後述するが、「ターゲットマーケティング」と呼ばれる、特定の顧客を対象とするマーケティング主導の製品コンセプトづくりに取り組んだ、その試みが最初に花開いたのが74(昭和49)年のキャンディ「小梅」で、78(昭和53)年には最初の半生タイプのビスケット「ジャフィ」が続いた。これが、80年代の大ヒット商品連発の下地となったのである。

 そして81(昭和56)年に「ブルーベリーガム」「雪見だいふく」、83(昭和58)年は「チョコパイ」「アーモンドビッグバー」、効能ガム「フラボノ」「ブラックブラック」や「フリーゾーン」、84(昭和59)年は「コアラのマーチ」と大ヒットが続く。85(昭和60)年には一大ブームを生み出した「ビックリマン」(悪魔VS天使シリーズ)、そしてロングセラー「のど飴」が出ている。

 しかも、81(昭和56)年に数え年で60歳の還暦を迎え、日韓で巨大企業グループを率いながらも、現場の最前線で指揮を執る重光のカリスマぶりは健在だった。

 例えば、83(昭和58)年発売の「チョコパイ」。森永製菓が61(昭和36)年に発売した「エンゼルパイ」というロングセラー商品があったが、マシュマロが挟まれていた。これに対し、重光はビスケット研究室に命じて、パサつかず、合成保存料なしで長い賞味期限が確保できるバニラクリームを開発させたことで、一気に市場を席巻することに成功した。その一方で、80年代半ばの最盛期に年間2000億円近く売り上げた超大ヒット商品の「ビックリマン」は、あまりに売れすぎるのを危惧した重光が「これが売れなくなったときはどうするのだ」と担当者に釘を刺していたという。ガム売上日本一となった61(昭和36)年に、ガム市場の頭打ちを危惧してチョコレート参入を決断したエピソードを彷彿させる先見性である。

 ちなみに、月間10億円を売り上げるほどになった大ヒット商品「ブルーベリーガム」だが、実はブルーベリーには香りがない。ブルーベリーガムの香りは、ロッテのガム研究室が「もしブルーベリーに香りがあったとすれば」と想像して創り出したものなのである。いまでは世界中にブルーベリーガムがあるが、これらはロッテが考えた香りを真似したものだ。ガムの売り上げがピークアウトする中で品目を増やさずに売り上げを増やすため、「グレープフルーツガム」を廃して、斬新な香りを創造して投入したマーケティングの勝利である。ロッテがヒット商品を連発することができた、重光の唱える「ターゲットマーケティング」の考え方はきわめて明快なものだった。

「世の中の人気が同じ方向に偏っているときには、あえてアンチテーゼをぶつける。世の中にはヘソ曲がりな人間が必ずいるもので、その層が仮に10%を占めるなら、それをターゲットにした製品を出してロッテが独占すればそれだけの売上げは確実に得られる」(*2)

 ここでいうヘソ曲がりとは、消費の多様化・個性化のことだろう。前述したように、重光は商品開発には必ず現場で一緒に取り組んでいた。その後の宣伝などのマーケティング活動に意見するのも、フーセンガムの時代から一貫している。当時の重光は韓国でロッテホテルとロッテ百貨店開業(79〈昭和54〉年)に続いてロッテワールド建設(84〈昭和59〉年に用地買収完了)へと動き出す超人的スケジュールの真っ最中だった。韓国のロッテがコングロマリット化していく中で、日本で自らの“原点”に携わることは一服の清涼剤のようなものだったのかもしれない。

*1 藤井勇『ロッテの秘密』こう書房、1979年
*2 『ロッテ50年のあゆみ』ロッテ、1998年