埼玉県の鉄道をざっくりと分ければ、JR宇都宮線・高崎線・埼京線を中心として、東部に東武伊勢崎線、西部に東武東上線、さらにその西には西武池袋線・新宿線が走っているが、東西を結ぶのは武蔵野線と川越線、東武野田線のみ。需要がないから路線が少ないのか、路線がないから需要が少ないのかは難しいところだが、ともあれ各地域の埼玉県民が集まるなら池袋が一番便利と言われるゆえんである。

 では、そんな埼玉県の鉄道はどのようにして現在の形になったのだろうか。

「鉄道のまち大宮」は
いかにして生まれたのか

 埼玉県最初の鉄道として1883年に開業したのが日本鉄道会社線、現在の高崎線である。政府は1872年に日本初の鉄道(官設鉄道、新橋~横浜間)を開業させているが、日本鉄道は華族や各地の名望家など民間の資本によって設立された日本初の「私鉄」である。

 元々、政府は東京と京都を結ぶ鉄道を中山道経由で建設する方針を取っており、その一部となる本線も本来であれば政府が建設する予定だった。しかし財政難により着工できなかったため、民間の資本を活用することになったのである。

 東京~高崎間を中山道ではなく川越街道経由で結ぶべきだとの要望や、小名木川から千住、岩槻、忍、熊谷、深谷、本庄を経て前橋と高崎の中間を結び、東北方面の延伸は岩槻から分岐するとの案もあったようだが、経済性や地形の問題から現在のルートが決められた。

 ルートの決定を受けて日本鉄道は、東京から上州高崎間とこの中間地点から青森までの区間を6年間で建設する計画を立てると、川口~熊谷間から工事に着手した。次いで東京のターミナルを上野に置くことを決議すると、上野~川口間の工事にも着手し、1883年7月28日に上野~熊谷間で営業を開始した。

 熊谷~高崎間の工事も急ピッチで進められ、翌年5月1日に上野~高崎間が全通した。日本鉄道は官設鉄道と連絡するため赤羽から品川までの連絡線「品川線」を建設し1885年3月に開業している。これが現在の埼京線赤羽~池袋間と山手線池袋~品川間のルーツである。