希代の天才たちが脳に何かしら障害を抱えていたことを示唆するエピソードは枚挙にいとまがない。だが、「にもかかわらず、偉業を成し遂げた」と評するのは正しくない。脳機能の一部に障害があったからこそ、才能が開花したのだ。(霊長類学・発達心理学者 正高信男)
レオナルド・ダ・ヴィンチ
万能の天才 1452→1519
中世ヨーロッパを代表する「メモ魔」を1人挙げるとすれば、万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。
彼は生涯にわたり、メモ帳を肌身離さず、着想や感想などを5万ページにも及ぶ膨大なメモに残している。そこに記された文字は、左右を反転させた「鏡文字」だった。
なぜ鏡文字を使ったのか。後世、他人に読まれないようにするため、または、後に出版するべく印刷を見越して反転させた、と解釈された。
これらの仮説は説得力に欠ける。鏡を当てれば判読できる鏡文字は暗号としては脆弱だ。また、当時、本の出版は比較的容易だったが、結果的にメモの内容を出版していない。
現代、多くの子供は初等教育で文字の読み書きを本格的に学習するが、文字のような視覚情報について、上下左右を適切に知覚できない者が存在する。こうした学習障害の一種である「読字障害」を持つ子供の一部は、ダ・ヴィンチ同様、鏡文字を書いてしまうことがある。彼らは教育で矯正され、正しい文字を習得していく。
読字障害の大半は、アルバート・アインシュタインに発達不全があったと疑われる場所と同じ、大脳の頭頂葉の障害に起因する。ダ・ヴィンチは無口で弁論に弱く、暗算や外国語の習得は人並み以下の能力しかなかったとされる。そこから、耳にした言葉を反すうできなかったことも想像できる。アインシュタイン同様、ワーキングメモリーの機能に障害があったのだろう。
だからこそ、自身のひらめきを含めて忘れないようにするため、全てをメモとして残す習慣を身に付けた。必然的にそれを読み返す。するとアイデアは洗練され、新しい発想が次々と生まれた。
結果として、今でいうブレーンストーミングという知的作業を一人で行っていたのである。
ダ・ヴィンチは、当時の芸術で尊重されていた様式美ではなく、自分の見たままに表現することに傾倒した。現実に近いことが美しさであるとし、写実へ情熱を注いだ背後には、ずばぬけた視覚感受性があった。それは障害を持ったが故の代償作用ではないだろうか。
ダ・ヴィンチは絵画や彫刻、建築だけでなく、科学技術においても偉大な足跡を残した。イタリアのルネサンス期を代表する「万能の天才」と呼ばれるが、万能ではないから、天才となり得たのだ。