重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。

【イギリスの元スパイが説く】ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争大物戦犯の最期Photo: Adobe Stock

人間が誠実に行動するという仮定が必要

SEES分析の第2段階「事実説明」は、前提や仮定の影響を受けやすい。

どのような前提や仮定があれば、気持ちが変わっただろうか。最も可能性が高い説明を選ぶときは仮定が重要になる。だから、そうした仮定への依拠を明らかにして、仮定が変われば結論が変わることがあるのかどうかを考える。

仮定は設定しなければならないが、状況が変わることもある。前提として合理的だったものが、時間がたつとそうではなくなるかもしれない。

ほかの仮説と比較するといった体系的な分析手法を用いれば、すべての証拠について率直に議論しやすくなる。おそらく仮説を選択する根拠となった秘密情報の信頼性を再確認したり、仮説のなかでも有効でなくなったものや、合理的でなくなったものを明らかにしたりすることになるだろう。

次の[レッスン3]で考察するように、事態の説明をその後の展開の予測に発展させるためには、人間が誠実に行動するという仮定が必要だ。結婚は、双方が貞節を守るという仮定にもとづいている。企業の計画の多くが失敗するのは、消費者行動について過去に設定した仮定が、もはや有効ではなくなったからだ。

政府の施策は、それを国民が適正だと受けとめるという暗黙の仮定がなければ、失敗することがある。たとえば、罰金を犯罪者の収入に比例させるとした1991年のイギリス刑事司法は、所得階層が異なる2人が、どちらも同じように責任があるとされながら、1人が640ポンド、もう1人が64ポンドの罰金を科されたために非難された。

話を1995年のセルビアに戻そう。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の大物戦犯、ムラディッチ将軍の動機を理解し、説明するための評価作業は驚くほど容易になった。

ムラディッチは、茶色の革の表紙のノートをとり出し、手書きの文字で埋まったページを30分以上にわたって読み上げて、クロアチア人と(ムラディッチの言い分によるとトルコ人のせいで)セルビアの人々がどれだけ苦しめられているかを述べ、セルビア人民の歴史について語った。

1389年のセルビア王国とオスマン帝国による「コソボの戦い」でセルビア王国がオスマン帝国に壊滅的な敗北を喫し、それによってセルビアは500年間、奴隷状態にあった、とムラディッチは訴えたのだ。

伝説によると、戦いの前夜に預言者エリヤがセルビアの司令官ラザールの前に現れ、勝利すればラザールは地上に王国を築くことができるが、戦死すればセルビアの人民は天国に迎え入れられると告げたそうだ。コソボの敗北は、魂の勝利であったのに加え、外部の圧政者から祖国をとり戻すというセルビアの長年の悲願を正当化した。

その日、セルビアのダイニングルームでムラディッチが率直に表明した世界観によれば、ムスリムとクロアチア人にボスニア・ヘルツェゴビナの領土の一部が占領されたままであるのは屈辱であり、自分たちの領土内の少数民族であるボスニアのムスリムを欧米諸国が擁護するのは、自分たちに対する侮辱であるとのことだった。

最後にムラディッチは、シャツの胸を勢いよくはだけて叫んだ。「殺すなら、この場で殺せ。自分は言いなりにはならない。外国人が祖先の墓を踏みにじることは許さない」と。

ムラディッチは、実質的に私たちが求めていた説明と、なぜ戦闘を続けるのかという重要な問いへの答えを提供した。私たちが突きつけた最後通牒を受けて理解したはずだが、国連に従うつもりはない。そう確信して、私たちはそれぞれの国の首都に戻った。

ムラディッチを止めるには、国連保護軍ではなく、国連の指令によって空軍に援護されたNATOの戦闘部隊を出すという180度の政策転換をしなければならないだろう。それは、実際うまくいった。

まずイギリスとフランスの緊急対応部隊が、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部に位置するイグマン山で首都サラエボを守り、次に2万人のアメリカ軍を含むNATO軍を配備した。すべては大規模な空軍作戦によって援護された。

2017年11月22日、オランダ・南アフリカ・ドイツ出身の裁判官を擁したハーグの国際戦犯法廷は、ムスリムとクロアチア人を恐怖に陥れ、自称独立国であるセルビア人国家から追い出すもくろみの一部として、ムラディッチの軍隊が数千のボスニアのムスリム男性と少年を殺害したこと、また女性や12歳ほどの少女たちを日常的かつ残忍にレイプしたことを認定した。

さらにムラディッチ指揮下の兵士たちが、どのようにして丸腰のムスリムとクロアチア人の捕虜を殺害したり、非人道的に扱ったり、飢えさせたりしたかが、裁判官団によって詳細に述べられた。

ムラディッチは戦犯として有罪判決をくだされ、終身刑の宣告を受けた。

まとめ 人々の行動の理由を説明する

世界と人々の行動の理由を理解するには、事実を説明する必要がある。[レッスン2]では、観察したことや進行中の出来事について、最も良い「事実説明」をいかに探るかを述べた。世界をできるだけ正確に説明するには、次のことをするべきである。

・ 事実の選択は中立ではなく特定の説明に偏っているかもしれないことを認識する
・ 事実は自明ではなく、もっともらしい別の説明がつく可能性もあることを覚えておく。最もありそうな説明を選択する際には、状況が重要である。事実の相関関係は、直接の因果関係を意味しない
・それぞれの説明を真実である可能性がある仮説として扱う
・ オッカムの剃刀に従い、単純なものも含めて可能性のあるすべての仮説を注意深く設定する
・ ベイズ推定を適用し、識別に役立つ証拠を用いて、仮説を互いに照らし合わせて検証する
・ 別の仮説の検証をいかに無意識に枠組みにはめこみ、感情的・文化的・歴史的な偏見を抱く危険を冒しているかに注意する
・不利な証拠が最も少ない仮説が、最も真実に近い可能性が高いことを忘れない
・何が私たちの考え方を変えるのかについて、感受性の分析から新しい知見を得る
デビッド・オマンド(David Omand)
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。