許される不謹慎ジョークか差別となるかは紙一重

 まず一つ目について。現代ではインターネットによって、昔なら交わることのなかった層が接点を持つ社会となっている。その一方で、自分と同じ趣味や嗜好(しこう)を持つ仲間とはさらに結びつきやすく、コミュニケーションを取りやすくなっている。

 よく言われる「エコーチェンバー現象」とは、閉じたコミュニティーの中で似た意見のもの同士でのコミュニケーションが強まることで、その主張がより濃密に、先鋭化していく可能性がある現象だが、発信者がより視聴者やフォロワーの期待に沿うために表現を過激化させていくこともこれにあたるだろう。

 誇張表現は基本的に誇張されればされるほど面白いし、不謹慎なネタも不謹慎であるからこそ一部では好まれる。身内だけの場では見逃されても、公には許されない表現は無数にある。

 アメリカのスタンダップコメディアンは、どの地域、どの劇場で演じるかによってネタを変えるという。許される不謹慎ジョークか差別となるかは紙一重であり、ある地域で笑いを取っても、他の劇場で理解されるとは限らないからだ。そう考えると、一回配信された動画や記事が誰に見られるか分からないインターネットが、どれだけ危険か理解できる。

 ネット上では、そのコミュニティーが完全に「閉じて」はいないということだ。閉じていないのに、閉じていると錯覚しやすい。炎上して初めて、そのコミュニティーが完全には閉じていなかったことに気づく。そのような事例が一体いくつあるだろう。

他者への想像力が試される時代になった

 二つ目の、「時代によって誰かを傷つける言葉は変わり、昔よりもより配慮が求められる時代になっている」という点について考えよう。たとえばサザンオールスターズの「TSUNAMI」は、東日本大震災以降、演奏や放送が自粛された。身内を亡くした人や家を失った人の心情が日本人にとって身近であったから、そうなったのである。あるいは凄惨な殺人事件が報道された後、首を斬る演目が自粛された例もある。

 どのような表現が許されるか許されないか、ギリギリでセーフなのかアウトなのかは時代によっても違う。

「難民」や「テロ」「地雷」といった言葉がカジュアルに使われる理由は、それらで苦しんでいる人が日本人にとって心理的に遠い存在であることと無関係ではないだろう。

 また、ここへきてこれらの言葉の使用を考え直そうという意見が一部で出ているのは、これまで見えづらい存在だった他者への想像力が試される時代になっていることの表れでもあるのではないか。

 ウケる表現を使おうとして行き過ぎたり、自分では問題ないと思っていた言葉がはらむ問題を指摘される局面は誰しもあるはずだ。その際に、相手の意見をシャットアウトしないようにしたいと自戒を込めて思う。