これは政府部内の決定的な対立であり、シュンペーターが苦労してまとめた財政計画(Finanzplan)は、ようやく10月1日に閣議で議論されたものの、議会には回らなかった。10月15日に新聞発表し、16日付の新聞に要旨が掲載された。

 しかし、シュンペーターは17日に辞任してしまう。閣議で見送られた以上、辞任するしかなかったようだ。18日付の新聞には、Der Finanzplan des Staatsseketars a.D.Dr.Schumpeter(退官〔a.D.〕したシュンペーター博士の財政計画★注3)と題されて全文が掲載された。後の祭りである。

 シュンペーターの考え方は、自由主義のオーストリア学派らしく一貫していると思う。しかし、ドイツ社会化委員会で石炭産業の国有化策をまとめた時点とは正反対の考え方なので、周囲がとまどったことも確かであろう。

 激しく動揺する戦後危機のなか、敗戦国に課される賠償金問題を抱え、しかもドイツとオーストリアではファンダメンタルズがまるで異なる。オーストリアは産業地帯、食糧供給地帯だった帝国の東部を失い、何も資源がなくなったのである。

 ドイツのように国内に強大な鉱工業があるわけではない。したがって現実的な政策を考えれば、オーストリアではこれがベストプラクティスだ、と言いたかったのであろう。

 それでも、もっとうまく立ち回れたのではないか。メルツ先生は、「彼が一方で急進的に過ぎ、あまりにわがままでまたおそらく、あまりに人間関係を大事にしなさすぎたらしいという状況に帰せられるだろう」(Marz 1981)と書いている。

 想像するしかないが、社会民主党幹部に対しては貴族的な尊大さを見せたのかもしれない。リヒャルト・コーラやフェリックス・ゾマリーら金融関係者との関係は良好だったから、それもバウアーらには面白くなかったことであろう。

アルプス鉱山会社をめぐる
人々のその後

 こうして1919年10月17日、シュンペーターは財務相を辞任して役所から自宅へ帰ってしまったが、もうしばらくアルプス鉱山会社をめぐる登場人物を探索してみたい。

 まず、フィアットの命を受けて株を買い集めたリヒャルト・コーラ(Richard Kola 1872-1939)だが、彼はウィーンの金融富豪として有名になり、この事件の翌1920年に出版社を買収した。もともと書物が好きだったコーラは、1920年代を通してM&Aにより出版関連事業を拡大した。戦間期(ベル・エポック)の出版ブームに乗ったのである(★注4)。