フランス国王を逮捕

 国民議会は、アメリカの新しい民主政に基づき、政府を立ち上げた。こうして、フランスは人権宣言(人間および市民の権利の宣言)と呼ばれる文書を記すことになる。

 1789年8月に採択された人権宣言は、「自由、所有権、安全、圧政への抵抗」といった、基本的人権を認めたものだ。

 多くの貴族や聖職者がフランスを離れ、プロイセンやオーストリアなどの国々に、フランスへと攻め込むよう説得した。すると、フランス政府は、こうした軍を支援したとして、フランス国王を逮捕した。

 新しい憲法は、1791年に制定され、立憲君主制を求めた。つまり、王は相変わらず存在していたけれど、法律をつくる立法議会の権力によって力を制限された、ということだ。

 とはいえ、この新しい政府も、一定の税金を支払っている25歳以上の男性にしか投票権を認めなかったので、まだ万人平等とはいえなかった。

「恐怖政治」を宣言

 おまけに、フランスの人民はそれでも満足せず、パリの群衆は凶暴になった。過激派集団のパリ=コミューンは、男性普通選挙権を求め、立法議会に王政の停止を求めたのだ。

 1792年、立法議会に代わって、新たに国民公会が成立する。国民公会は、新たな憲法を起草し、王政を廃止して、共和政を立ち上げたけれど、共和政は不安定だった。権力争いが起こり、国民公会は分断してしまう。

 革命中にさまざまな政治的派閥が生まれ、それぞれが共和政の目指す方向性について、別々の考えを持っていたのだ。

 マクシミリアン=ロベスピエール率いるジャコバン派という集団は、「恐怖政治」を宣言して政敵たちを支配し、左派か右派かを問わず、王を支持する者や、法令に反対する者を次々と逮捕していった。

 1793年から1794年にかけての恐怖政治時代、何千人もの人々が、現在コンコルド広場と呼ばれているパリの公共広場で、断頭台(ギロチン:罪人の首を切り落とすための装置)による斬首刑にされた。

 そのなかには、かのマリー=アントワネットもいた(ルイ16世は、恐怖政治が始まる数ヵ月前に処刑されていた)。ロベスピエールとジャコバン派は、公安委員会の名のもと、独裁支配をしいた。

 フランス革命戦争(1792年~1802年)のあいだ、彼らは100万人以上の男性たちからなる軍を率いて、侵略者たちと戦った。

 ところが、1794年7月、ロベスピエールは逮捕され、独裁の罪に問われると、その翌日に断頭台で処刑されてしまう。

ナポレオンの登場

 ロベスピエールの死により、恐怖政治は終わりを告げ、総裁政府が新たに実権を握る。でも、総裁政府は頼りなくて、どう国をおさめるのが最善なのか、なかなか見出せずにいた。

 そこに登場したのが、フランス軍の英雄、ナポレオン=ボナパルトだ。彼は総裁政府を廃止し、1799年に新しい政府を立ち上げる。

 そうして、とうとうフランス革命を終わらせたのだ。5年後、彼は皇帝ナポレオン1世を名乗った。

 1812年までに、ナポレオンは、フランス帝国の領土を、現在のイタリア、ドイツ、スイス、その他のヨーロッパ諸国(ただし、イギリスは除く)を含むまでに拡大していった。

フランス革命の「恐怖政治」…独裁者ロベスピエールの悲惨な末路

 1805年、イギリスの子爵のホレーショ=ネルソンは、トラファルガーの海戦で、ナポレオンの艦隊を破った。ナポレオンは、フランスの領土を拡大した名将軍だったけれど、ひとつだけミスをおかした。

 ロシアにまで侵攻して、領土を拡大しすぎてしまったのだ。結局、ナポレオン率いる兵士たちは、寒さにこごえ、敗走するはめになる。また、1804年、彼はナポレオン法典(フランス民法典)を制定して、個人の自由、所有権、働く権利、意見を述べる権利を守った。

 これで、すべての市民が、法の前では平等になったのだ。ただし、負の側面もあった。ナポレオンは、自身のイメージを守るため、フランスのほとんどの新聞や本を検閲し、政府の警察に郵便物を開封させた。自由が独裁主義に置き換わった、というわけだ。

 やがて、ナポレオンは、同盟を結んだヨーロッパ諸国によってフランスから追放されたけれど、フランスに逃げ帰ってきた。

 でも、1815年6月、現在のベルギーで起こったワーテルローの戦いに破れ、またもや追放され、とうとう1821年に亡くなった。

 こうして、皇帝ナポレオンは去ったけれど、フランスに民主政ができあがるのは、まだ先の話だった。

(※本原稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を抜粋・再編集したものです)