生きづらさを解消するには「自分を疑っている自分」ごと肯定するしかない
「これはこう」と、決めつけるのが、嫌なんです。私は。
「自分はこういう人間」とか、「あいつはこういう人間」とか。そういうことを、よく考えもしないで言葉でくくってしまうのが、嫌なんです。嫌いなんです。だから私はいつも自分のことを疑っているんです。だって、私は「自分」のこと、わからないから。よく理解できないから。あの子は、ずっとずーっと遠くにいるから。霞んで見えないくらい、よくわからないくらい、あの子は私の遠くにいる。だからもっと知りたいと思う。もっともっと深く探って、近づいて、あの子のことを見てみたいと思うんです。
「私」は理性で、「あの子」は、感情なんです。たぶん。
私が昔思い描いていた、優しくて、素晴らしくて、思いやりのある自分は、私の理性が作り上げた「自分」だったんです。感情ではなく、理性で、「自分」のことを創造していた。「こういう人間が素晴らしい人間で、私の理想だな」というのを忠実に思い描いて、その通りに動こうとした。だからボランティアしたり、ひどいニュースを見て心を痛めようとした。最低です。本気で誰かの役に立ちたいという熱い思いを持っている人と同じ心優しい人間になりたかった。「自分はボランティアに参加するような優しい人間です」という証明がほしかった。
でももしかしたら、理性で痛めようとしていただけで、本当に痛めていたわけじゃなかったのかもしれない。
私は、「ボランティアするほうがいい人間」とか、「顔も知らない赤の他人のために心を痛められる自分であるべき」とか、そういうことを思い描いて、その理想に合わせて行動していただけなんです。本当に心からそうしたいと思ってそうしていたのかと聞かれると、わかりません。ただ、「痛めていなかった」可能性も、十分に、あると思うんです。
私が言いたいのは、そういう「理想の自分」を「理性」で作り上げて、感情が伴っていないにもかかわらず、それが「自分」だと思い込むことがすごく危険だ、ということなんです。自分に自信を持つのはいいと思う。自分を信じられるのも、いいと思う。私にだって、本当に人を思いやれるときもあります。本当に心を傷めることだってあります。でも「いつも」そうかといえば、わからない。常に、私が思い描く自分であるとは限らない。だから、「自分を疑う心」を持たなければ、本当に誰かを思いやったり、本当に自分がやりたいことを見つけたりすることはできないと、そう思うんです。
私は高校生の頃、ニュースで流れた、いじめの事実があると知っていたのに無視したという担任教師のことを「ひどいやつだ」と思いました。なんてことをするんだと。私だったら絶対にそんなことしないのに。私なら絶対に助けてあげられるのに、と。手を差し伸べるのが教師の務めでしょ、と。
でも本当にそうでしょうか。本当に私は、私が教師だったとして、自分のクラスでいじめがあったとして、私はそれを助けられるのでしょうか。親にとやかく言われることを恐れずにいじめっ子のことを叱れるのでしょうか。いじめ問題が発覚して自分の教師人生が終わるかもしれないと思ったとしても、自分が路頭に迷うことになるかもしれなくても、本当に、それでもいいから、その子を助けたいと、本当に思えるのでしょうか。
わかりません。少なくとも、私は正直に言って、自信がありません。もしかしたら、見て見ぬ振りをしてしまうかもしれない。「気がつきませんでした」と言えば済むだろう、と思ってしまうかもしれない。
私が言いたいのは、そういうことです。正義になる可能性がある人間なら誰にでも、悪になる可能性があるのだということです。いくら自分には正義の心がある、信じる心がある、と思っていても。自分の「感情」は、それに従ってくれないかもしれない。コントロールできないかもしれない。自分の「理性」と、「感情」は、別物なんです。本当にコントロールできるのかどうかなんて、わからないんです。もしかしたら、「正義の心を持つ自分」に強い自信を抱いている人こそが、それが裏返った時にとんでもない悪になるんじゃないかと、そう思うんです。人は、どうなるか、わからない。
そうです。わからないんです。何も。わからないことだらけなんです。人間は。この世の中は。だから、だからこそ、私は……私は。
私は、自分に自信がないと、言いたい。大きな声で。自分のことを信用できないの、と。自分をいつも疑っているの、と。
だって、どんなに嫌いなところだらけで、コンプレックスばかりでも。それでも、自分を疑っている自分のことなら、少し……少しだけ、信用できるような気がするから。
ずいぶん、長くなりました。でも、私は、こう思っているんです。私は自分のことを信じてない。信頼できてない。
でも、それでいいんだと、思いたい。自信がない人間にだって、いいところはあると思いたい。自分を疑って疑って、疑いまくっている人間にでも、ちょっとはいいところがあるんだと、そういうことを、話したくて。
こんなことを公に話すのはおかしいでしょうか。おかしいかもしれない。「自分は悪になるかもしれない人間です」と言い切るなんて、変ですか? 変かもしれませんね。
いや……でも、変かもしれないのは、きっとあなたも、一緒です。
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。