新型コロナウィルスは、2019年12月に中国ではじめて報告されてから瞬く間に世界に広がり、今なおおさまっていない。そんななか、メディアでもよく取り上げられ、多くの人の関心を集めているのはコロナ対策「日本モデル」の良い点・悪い点だ。
世界から見て、日本のコロナ対策は概ね成功しているという論調もある一方で、「税金の無駄遣い」と批判されたマスク配布、効果のはっきりしない水際作戦、進まない3回目のワクチン接種などチグハグに見えるところもあった。
しかしこの「日本モデル」は今に始まったことではない。日本でのコロナ対策のドタバタを歴史から捉えたらどうなるか。ダイヤモンド社の書籍『東大教授が教える やばい日本史』シリーズ執筆者の滝乃みわこ氏に聞いた。
(取材・構成:小川晶子)
日本の歴史は「外国すごい!」「日本すごい!」を繰り返している
そもそも、日本史に苦手意識をもつ人は多い。そういう人には、まずは歴史のおおまかな流れをつかむことをおすすめする。
『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』は、日本史の流れを大きく「外国すごい!」と「日本すごい!」という二つの時代にわけて解説している。この二つの時代を繰り返しながら、日本は発展を続けてきたのだという。本書の構成も「中国センパイすごいっすの時代」⇒「日本も負けてないよ大和魂の時代」⇒「ヨーロッパさんすごいっすの時代」⇒「鎖国で引きこもってすごすよの時代」……という具合に、「外国すごい」と「日本すごい」を繰り返したものになっている。
外国の進んだ文化や技術に感動し、取り入れる時代の次には、日本独自の路線にこだわる時代が来る。鎖国がわかりやすい例であるように、島国ならではの外交をしてきた歴史だと言えるだろう。そして、外国に憧れ、積極的に取り入れる一方で、なんでも日本風にアレンジしようとするなど「大和魂」にこだわる点も面白い。
「大和魂」という言葉が最初に登場したのは『源氏物語』だと言われている。当時の日本は中国に学んでおり、中国の知識や才能に対して、日本独自の才能もあるよねということで出てきた言葉だ。
「大和魂」自体はよい言葉だが、一歩間違えると「日本は、日本のことだけ見ていればいい」という間違った解釈を生みかねない。外国に学ぶことをやめ「日本モデルでやっていくんで!」と視野を狭めてしまうのでは、合理的とは言えない。
「日本はなんとかなる」という元寇以来の謎の自信
「神風」という言葉が好きな人も多い。コロナ禍のはじまりの2020年2月には「風」と「風邪」をかけて新型コロナウィルスは安倍政権にとって「神風邪だ」と政府関係者が言ったという報道もあった。何か都合の悪いことを吹き飛ばしてくれるというわけだ。
「日本モデルでやっていくんで!」と言う背景には、「日本は(神風が吹くから)なんとかなる」という謎の自信が感じられる。この「神風史観」ができたのは、さかのぼること鎌倉時代。2度にわたりモンゴル軍が日本に攻めてきた際、2度とも偶然やってきた台風でモンゴル軍が壊滅的な被害を受けるというミラクルが起きて日本は勝利した(最近は1度目に台風はこなかったという説も有力)。
このとき執権をつとめていた北条時宗は日本を守ったヒーローのように見えるが、実は別の見方もできる。
『さらに! やばい日本史』でも紹介したが、そもそもモンゴル帝国のフビライ・ハンは突然日本に攻め入って来たのではなく、何度も日本に「私が皇帝になったのに、使者を派遣してこないのは何故ですか? 仲良くしたいので挨拶に来てください。来ないと軍を送っちゃうけど、それは嫌ですよね? 我々もそれはしたくないので、よく考えて返事をください」という手紙を送っていたのだ。監修者の本郷和人氏によると、原文は大変丁寧な文章で書かれていて、元の使者も日本について「日本は狭く、ろくな作物も育たず人間も野蛮なので皇帝陛下がわざわざ征服しても見返りがありません」とフビライにレポートを提出していることから、時宗がきちんと返事を送っていれば元寇はなかったのではないかという。
しかし、時宗はフビライからの手紙を無視し続けていた。無視するということはモンゴル軍が来るということだが、時宗に何か逆転アイデアがあったのかというと、自分は鎌倉から一歩も動かず、九州の守りを固めたあとは「異国が攻めてきませんように!」と神社でお祈りしていただけ。そして予告通りモンゴル軍3万人が対馬と壱岐に上陸し、村人数百人を殺害してしまった(文永の役)。しかしこれは「偵察と脅し」目的という説が有力で、モンゴル軍は日本の武士たちと1日戦っただけで帰って行った。
こんな大事件の後も時宗は謎の自信で「これで我々の強さがわかっただろう。だからちゃんと挨拶に来なさい」というフビライからの手紙を無視し続けた。それどころか、手紙を持ってきた使者5人を全員殺害! 野蛮な国際ルール違反までして、フビライの怒りを買ったのだ。「日本は日本モデルでやっていくんで!」というのが時宗の気持ちだったのかもしれない。
それでどうにかなると思っていたのが不思議だが、なんと、その時はどうにかなってしまったのだ。
弘安の役でフビライは14万人の大軍を日本に送った。しかし日本の鎌倉武士たちと激しい戦闘になり、さらに台風シーズンに突入したため船が暴風雨にあってほぼ全滅。しかしその後、モンゴル軍と戦った鎌倉武士たちに充分な恩賞を与えなかったことで武士たちの不満がつのり、結果的に元寇は幕府滅亡のきっかけとなった。
第二次世界大戦末期の「神風特攻隊」はこの元寇のときの神風にあやかったネーミングだが、700年も前の鎌倉時代の成功体験が現代にまで響き、今も「日本モデル」的なメンタルに影響を与えているならば、多角的に歴史を考え学ぶことに意義はあるだろう。
科学的合理性よりメンツで死者が出る
オミクロン株が猛威をふるうなか、日本は3回目のワクチン接種が遅れ、なかなか進まなかった。要因は複数あるだろうが、岸田政権になってワクチン担当大臣が変わったのも一つの理由だろう。
3回目なのだから今までと同じようにやればいいのではと思うが、どうやらそうはいかないらしい。驚いたことに、大臣の交代によって、都道府県から厚生労働省に派遣されていた職員たちの「リエゾンチーム」が解散してしまったのだ。そのまま引き継げば3回目接種もいくらかスムーズに進んだかもしれないが、新政権としてのメンツを重視する空気がこうした動きを作り出しているのかもしれない。
この「メンツ」というのは、歴史を見ても厄介なものである。『さらに! やばい日本史』で紹介した、森鴎外のエピソードがいい例だ。
作家として知られる森鴎外は、実は医師の顔ももち、日清・日露戦争の頃には陸軍の軍医をつとめた。
当時、日本軍では「脚気」という病気で死者が続出していた。鴎外はその原因を「菌」だと考え、衛生に気を遣うようにと言っていた。
ところが、これに反論し、「脚気は菌じゃない。栄養不足が原因だ」と言ったのが北里柴三郎だ。メンツをつぶされた鴎外はたいへん腹が立ったようで、北里が歴史的な発見をしたときには匿名で新聞に「北里の発見は欧州でウソだと言われている」というフェイクニュースを流すほど根に持っていたという。
しかし実際、脚気は北里のいうとおり「栄養(ビタミンB1)不足」が原因だった。当時ビタミンという概念はなかったが、すでに海軍では「西洋の軍隊には脚気のような病気はない」ことから麦飯や洋食(ビタミンB1を多く含む)をとりいれ、脚気による死者が劇的に少なくなった。ところが海軍と陸軍は仲が悪く、鴎外も「原因は菌」にこだわったため、白米を支給した陸軍は死者を出し続けた。陸軍が麦飯を採用したのは海軍から遅れて30年もたってから……。
当時の鴎外はあまり批判されず責任追及もされていない。しかし、死後に判断ミスを指摘され、後年批判されている。現代の日本政府の新型コロナウイルス対策も、研究が進んだのちにさまざまな指摘をされるのだろう。
「歴史」を知る効用
歴史を知っていると、現代のニュースも「あのときに似ている」と感じることが多くある。そして少し冷静に物事を見られる。
外国と日本の接点をテーマにした『さらに! やばい日本史』はとくに、コロナ禍の今の状況に照らしながら読むと面白い。そして最後の章「世界に日本すごいと思われたいの時代」の冒頭マンガ解説にあるように、苛酷なコロナ禍を未来に希望を持ちながら乗り越えていきたいものだと思う。