“天敵”が“盟友”に転じた昭夫と佃の変節

「最近、昭夫さんが私の言うことに耳を傾けてくれるようになった。会うときは必ず食事もする」

 佃が昭夫との親密さを周囲に吹聴するようになったのは13年になってからのことだ。昭夫に尻尾を振る佃に対し、周りからは「あれだけ天敵と言っていたのにどうしたのか」と訝る声が聞こえるようになったという。昭夫が佃を糾弾する報告書の日付が13年1月で、昭夫や佃による宏之の解職・解任が14年12月。わずか2年足らずの間に、犬猿の仲だった“天敵”が“盟友”に転じるような利害の一致が2人の間にあったということだろう。

 では「利害の一致」とはどのようなものだったのか。ここでは一つの「見立て」を紹介したい。以下は、武雄の解職に関する一連の損害賠償請求訴訟において、会長秘書室長として長年、武雄の秘書を務めていた磯部哲が業務記録から明らかにした見解であり、側近として仕えた者にしか知り得ない情報が多数含まれている。それ故に、昭夫と佃が急接近していく理由の有力な見立てと考えられるのだ。

 まず2人の急接近のきっかけになったと目されるのが、武雄から磯部に発せられた特命だった。これは12年1月のことで、武雄の特命とは、「日本経済は全体として厳しい状況が続き、菓子産業も少子化も相まって同じような厳しい状況が続くであろうから、ロッテグループの経営をローコストにするため、日本のロッテグループの組織再編案を検討するように」というものだった。このとき、磯部はすでに人事担当を外れており、「人事担当役員に指示を伝える」と答えると、武雄は「お前がやればいい」と特命扱いにした。かくて、磯部は人事担当役員だった野田光雄と相談しながら検討を始めた。

 磯部らが描いた構想は、ロッテグループに当時17あった事業会社を集約して事業部門担当の子会社と事務(管理)部門担当の子会社をつくり、両子会社をロッテHDの下に置くというものだった。そして重光家はオーナーとして持株会社(ロッテHD)のトップに君臨するが、各事業会社のトップにはプロフェッショナルを据えるという、経営学で言うところの「所有と経営の分離」を打ち出したのである。この組織再編案は宏之や昭夫、佃など当時の役員にも説明がなされてあらかじめ了解を得ていた。

 13年2月、武雄の特命発令から1年後に磯部は再編案を武雄に提出すると共に、「私案」として再編後の人事案も武雄に伝えた。だが、これが後に波乱を生むことになる。

 磯部私案では、佃をロッテHDの代表取締役から外し、事務部門担当の子会社の代表取締役にすることや、宏之をロッテHDの代表取締役に昇格させることなどが盛り込まれていた。磯部によれば、こうした人事案は、決して佃の降格を画策したものではなく、「佃氏はもともと銀行出身であり、菓子・食品製造や営業に関する知識・経験が乏しいため、菓子類の製造と営業を主要な事業とするロッテグループのトップとしては適任ではなく、佃氏に適任な業務はないかと考えた結果、事務部門を担当してもらうのがよいと考えたからです。事業部門担当の子会社の代表取締役としては雪印乳業の元社長であり、当時、ロッテアイスの代表取締役社長を務めていた西紘平氏を据えることを検討していました」。

 この段階では組織再編も人事も「案」にすぎず、あくまで叩き台だった。だが、事前に知らされた再建案に衝撃を受けた人物が2人いた。それが佃と昭夫である。佃の反応について磯部が続ける。

「私はあくまで適材適所という観点からこのような役員人事案を提案したのですが、ロッテHDの代表取締役社長というロッテグループで創業家に次ぐ地位から、代表取締役とはいえ事務部門の子会社に配置換えされるというのは、大きな降格人事と思われ、プライドが高い佃氏にとっては、受け入れがたい内容であったようです」

 かたや昭夫は突拍子もない人事案を提案してきた。

「兄を(ロッテHDの代表取締役ではなく)社主に据えることはできないのか」

「社主」というと聞こえはいいが、代表権者でも取締役でもない名誉職で、その意味するところは単なる「所有者」である。もちろん当時のロッテにそんな役職は存在しない。要するに経営の第一線から外して名誉職に祭り上げてしまえということである。しかし宏之はすでに名実共に日本ロッテの経営を担っており、社員の誰もが後継者であることを承知していた。磯部は、「宏之氏を経営から外すなんて考えられません」と一笑に付し、その場は収まった。磯部はこう振り返る。

「おそらく昭夫氏は、韓国のロッテグループだけでなく日本ロッテグループの経営にも関わりたいと考えて、宏之氏を代表取締役にはしたくないと思っていたのでしょう。この頃から、取締役会でお互いを罵倒し合うなど犬猿の仲だった昭夫氏と佃氏が、端から見ていて白けるほど懇ろ(ねんごろ)の関係になっていきました」