ロッテ重光武雄はいかにして“寝首”をかかれたのか――魑魅魍魎が蠢いた舞台裏

30年かけて築いた資本防衛策を二男の昭夫と、その「手下」のロッテホールディングス(HD)社長の佃孝之、専務CFOの小林正元の3人組にやすやすと攻め崩されてしまった重光武雄。3人は一貫して共謀の事実を否定しているが、昭夫らクーデター3人組が周到に準備を重ねた「天地人」の攻めがなければ、下剋上など不可能であったことは誰の目にも明らかだ。わずか1年で長男の宏之と武雄からすべての地位を剥奪し、グループからの追放を果たした魑魅魍魎の糾合はどうやって行われたのか。その経緯と背景を探ってみよう。(ライター 船木春仁)

「天地人」で武雄の寝首を掻いた魑魅魍魎ども

「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」

 これは孟子の「天地人」として知られる言葉である。その意味するところは、城を攻めるときには、天の与える好機も土地の有利な条件には及ばず、その有利な条件も、城攻めに携わる人々の心が一つになっていることにはかなわないという教えである。

 だが、「現代版の城攻め」となったロッテの下剋上では、謀反組が「天」や「地」だけでなく、「人」においても強固な力を発揮して城の内部から攻め落とし、武雄・宏之親子にとどめを刺した。30年かけて築いた、鉄壁の守りとなるはずだったロッテグループの資本編成や入念に準備を重ねてきた事業承継への備えも、身内に寝首を掻かれてはひとたまりもなかったのだ(『ロッテを奪われた男・重光武雄 ロッテ重光武雄、渾身の資本防衛策が二男の「クーデター」を生んでしまったという皮肉』より)。

「天」とは、武雄の衰えであった。2013年にロッテホテルの自室で倒れて腰骨を折り、大手術の後で車椅子を使う生活になった。時に91歳。体力の衰えは隠しようがなく、武雄の後継の座を狙う者には目の前にご馳走がぶら下げられたようなものだ。ちなみに55年2月生まれの昭夫は当時58歳で、翌々年の武雄追放時は60歳。柿が熟して落ちるのを待つ“熟柿戦略”では、90歳を過ぎても現役の武雄や年子の兄・宏之からの譲位を待っているうちに自身が熟柿になってしまうという焦燥感に我慢しきれなくなったのだろうか。

「地」でも謀反組は有利な立場にあった。武雄は地震が大の苦手なのに11年に東日本大震災が起き、前述した翌々年の転倒事故で訪日は途絶え、かつてのような、一年の半分は日本、半分は韓国という「シャトル経営」は影を潜めた。「日本は宏之、韓国は昭夫」という事業の棲み分けも進んでいたことから、昭夫はソウルで武雄をコントロール下に置くことができた。宏之が新規事業投資で膨大な赤字を発生させたという佃のウソの報告も、それを理由にした宏之の解任を半年も隠し通せたのも、“地の利”の賜物である。

 最後に「人」である。謀反組の人となりについてはこの後で詳しく述べるが、昭夫にとって佃と小林は下剋上に欠かせざる「手下」あるいは「相棒」であったことは間違いない。神様たる武雄の前ではまともな反論もできず、武雄の来日を知った途端、取締役会を放り出して逃げたとはいえ、日本のロッテ社員や幹部の前では、取締役会や会社組織を牛耳り、昭夫の忠臣としての役目を果たす有能な取締役だった。この2人と昭夫の心が一つになっていなければ、本来あり得ない乗っ取りが成就することはなかっただろう。

 兄を追い落とし、それを認めない父親を追放してでも経営権を握りたい昭夫。詳しくは後述するが、現在の地位に恋々とし、そのためなら、戦国武将の斎藤義龍のような父や兄弟を殺す企みに加担することも厭わない2人の取締役。そうした利害が一致し、反目することさえあった魑魅魍魎が徒党を組んだからこそ謀反は成功したのではないか。

 なお、昭夫、佃、小林の3人は裁判で一貫して共謀の事実を否定している。だが、「天地人」によるクーデターを振り返ると次々と疑問が湧いてくる。ロッテ株を持たない雇われ社長や専務がクーデターを起こしても、株主総会で即座に覆されることがわからないほど佃と小林も愚かではなさそうだ。大株主の従業員持株会や役員持株会が佃や小林の支持へ転じるような人望が彼らにまったくないことは当の本人たちが自覚しているだろう。創業家から経営権を奪うクーデターなら、昭夫も追放しなければ意味がないはずだ。宏之と武雄を追放したら、たまたま昭夫が残ったのでトップに据えたということはあり得るのか。こうした疑問を解決できる唯一の答えは、昭夫が佃、小林に地位や議決権確保などを保証して、3人で共謀してクーデターを実行したからとしか、私には思い浮かばないのである。