源頼朝「アメとムチ」の人心掌握術、窮地の重臣・御家人に説いた言葉とはPhoto:PIXTA

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、時に冷酷で厳しい“主君”たる姿が描かれている源頼朝。伊豆での流人時代を経て、数々の御家人たちを率いて鎌倉幕府を開いた背景には、頼朝ならではの「部下統率術」があったといえる。家臣たちに送ったとされる書状から、「リーダーとしての頼朝」の姿についてひもといてみよう。(歴史学者 濱田浩一郎)

頼朝が窮地に陥った家臣に
伝えた「言葉」とは?

 源頼朝は流人という立場から抜け出し、数々の危機をくぐり抜け、鎌倉に幕府を開いた「偉人」である。征夷大将軍の座まで上り詰めた背景には、頼朝ならではの「危機突破法」と「人心掌握術」があったといえる。頼朝の書状から、その詳細を読み解いてみたい。

 1184(元暦元)年8月、頼朝は異母弟の源範頼に西国出陣を命じた。平家方の西国の豪族を制圧もしくは味方に付け、平家本軍を孤立させるためである。

 同年8月8日、範頼は千葉常胤、三浦義澄、三浦義村、八田知家、比企能員など多くの関東御家人を携えて鎌倉を立った。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時は、それまで頼朝の寝所を警護する役割を担っていたと推測されるが、この時、彼らと共に出陣している。

 しかし、範頼軍には困難が待ち受けていた。進軍するにつれて、兵糧が欠乏してきたのだ。また、海を渡る船もなかった。

 範頼の使者が窮状を伝えるために鎌倉に向かい、1185年1月6日到着。「兵糧が不足し、御家人の士気も低下している。関東を恋しがる御家人が多い。馬が欲しい」と伝えている。