源義経は評価されすぎ? その影に隠れて功績が知られていない「ある人物」Photo:PIXTA

源平合戦で宿敵である平家の追討に尽力し、「優れた戦略家・戦術家」として、今も歴史ファンから人気が集まる源義経。しかし、彼の一軍の将としての適性や、戦いを勝利に導いた奇襲攻撃については、さまざまな史料から「異なる説」も浮上している。当時の史料から“若き英雄”義経の知られざる一面についてひもといてみよう。(歴史学者 濱田浩一郎)

荒波の中を無理やり出航……
一か八かの選択をしていた義経

 源義経といえば、日本人の誰もが名前くらいは知っている歴史上の有名人、スターといっても良い。兄の源頼朝に冷遇され、最後は奥州平泉で自刃した悲劇の英雄として伝説化され、能や歌舞伎などの伝統芸能、そして大河ドラマでも何度もその生涯が描かれてきた。

 一ノ谷の戦い、屋島合戦、壇ノ浦の戦いなど、宿敵・平家と死闘を繰り広げ、勝利を重ねてきたことから「優れた戦略家・戦術家」としての評価が専らである。

 ところが、『平家物語』などの史料をひもといてみると、また違った一面が見えてくる。『平家物語』にも真偽不明の逸話が多いことに留意すべきだが、世間の印象とは違った義経の評価、人物像を記した貴重な史料である。さっそく源平合戦のときの義経が、どのように描かれていたか見ていこう。

 例えば、元暦2(1185)年2月、讃岐国屋島(現在の高松市)の平家軍を攻撃しようと、義経らは摂津国渡辺を船出しようとする場面である。船がいよいよ出港しようというときになり、木を吹き折るほどの強風が吹き始めた。さらには大波のために、船も破損。そのような状況だったので、船頭やかじ取りたちも「まさか、船出はしまい」と考えていた。

 ところが、義経からは「ただちに船を出せ」との命令が下った。船頭らは「追い風ではありますが、すさまじい強風。沖はさらに激しく吹いているはずです。どうしてこぎ出せましょうか」と、船出を拒否した。

 すると、義経は大いに怒った。