源頼朝が義経追討のために刺客を派遣した「真の目的」とは?義経ゆかりの地、鞍馬寺 Photo:PIXTA

源頼朝は、源平合戦で活躍した腹違いの弟である義経と、のちに激しく対立することになった。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したその同じ年、なんと頼朝は義経を殺害するために刺客を派遣している。なぜこのような行動に出たのか。刺客が派遣されるまでの経緯とは。史料を基に解説していこう。(歴史学者 濱田浩一郎)

源頼朝と義経の対立
刺客を派遣した頼朝

 源頼朝と義経という異母兄弟の確執は、日本人の琴線に触れるものがある。「判官びいき」という言葉が生まれたほどだ。判官びいきとは、薄幸の九郎判官(検非違使の三等官)義経に同情し、愛惜する意が転じて、不遇な者や弱い者に同情することをいう。冷徹な頼朝、そんな頼朝に迫害されたかわいそうな義経というイメージが日本人の間にできあがっていると言えよう。

 頼朝と義経が対立するようになった要因についてはさまざまな説があり、中でも朝廷からの官位を義経が勝手に受けたことが大きな要因であるとみられていた。しかし近年では、この説はあまり支持されていない。頼朝からの鎌倉召還を拒み、京都で後白河院と密着する義経の行動に、頼朝が危機感を抱いていたことが対立の要因ではないかといわれている。

 文治元(1185)年は、頼朝と義経の対立が極まった年であった。なぜか。鎌倉にいた頼朝が、義経を殺害するために刺客を派遣したのだ。