多くの日本人は気づいていなかったが、2000年以降のアメリカでこの100年起こっていなかった異変が進行していた。発明王・エジソンが興した、決して沈むことがなかったアメリカの魂と言える会社の一社、ゼネラル・エレクトリック(GE)がみるみるその企業価値を失ってしまったのだ。同社が秘密主義であることもあり、その理由はビジネス界の謎であった。ビル・ゲイツも「大きく成功した企業がなぜ失敗するのかが知りたかった」と語っている。その秘密を20数年にわたって追い続けてきたウォール・ストリート・ジャーナルの記者が暴露したのが本書『GE帝国盛衰史 「最強企業」だった組織はどこで間違えたのか』(ダイヤモンド社刊)だ。電機、重工業業界のリーダー企業だったこともあり、常に日本企業のお手本だった巨大企業の内部で何が起きていたのか? 前任者を引き継いだ新CEOは、GEの高業績は前任者だけの力ではないと証明する必要があったが、そのプレッシャーは並々ならぬものがあった。(訳:御立英史)
CEOとして何をすべきかはわかっている!
ジェフ・イメルトの使命ははっきりしていた。GEの収益マシンをジャック・ウェルチの時代と同じように安定的に稼働させ、GEの高業績はウェルチただ一人の手柄ではないと示すことだった。
しかしイメルトは、ウェルチの時代には使えた便利な仕組みを使えなくなった。特に大きいのが、へこんだ四半期の穴を埋めて簡単に利益を出せる、GEキャピタルの会計トリックが使えないことだった。崇拝された日々は過ぎ去り、GEの金融工学に関する陰口が聞こえはじめていた。
そんなときに、まったく別の話だと断ったうえで、イメルトは取締役会に、呑気とも思える話を持ち出した。つながりのある有力なCEOたちとグループをつくり、大企業の経営トップならではの問題を語り合いたいというのだ。同じ立場の人間から、ほかでは聞けない話を聞ければ、全員にメリットがあるというのが理由だった。
取締役の一人、ホームデポの共同設立者であるランゴーンは、自分の耳が信じられなかった。新しいリーダーは、よそのCEOとの交流ではなく、自社に集中する必要がある。会社が逆風にさらされているときはなおさらだ。
一目置かれているしわがれ声の長老は、イメルトをそばに呼び寄せて耳打ちした。「その気持ちは理解できなくはないが、そんな時間があるなら、社内のリーダーたちや顧客との対話に使ったほうがいいと思いますよ」
ランゴーンが話し終えると、イメルトは厳しい目で彼を見つめて言った。「何をすべきかは、自分がいちばんよくわかっています」
就任2ヵ月で上から目線で語るイメルトに、ランゴーンは苦笑した。
約束どおり堅実な会社にするしかない
GEを取り巻く世界が、ひっくり返ってしまった。景気後退と同時多発テロに伴う不透明感が、GEの基盤である世界経済の成長を鈍らせた。さらに、エンロン・スキャンダルに伴う会計ルールの変更によって、膨大な金融資産をGEキャピタルのバランスシートに計上しなければならなくなり、簡単で確実な帳簿上の収益プールがなくなってしまった。
前者の問題を解決するためには、経済成長の芽を見つける必要があるとイメルトは考えた。重機械の新しい市場を見つけ、新しいエンジン、タービン、医療機器の開発に資金を投入し、米国での販売を再開しなければならない。かつてGEを支持していた投資家たちに、GEはエンロンではないと説得する必要もあった。
ウェルチの成功を再考する動きが少しずつ広がっていたことも問題だった。ウェルチの時代の9年にわたる二桁台の成長は、どこまでが注意深い会計処理─捏造とまでは言わないとしても─の結果だったのだろう? もし、エンロンの破綻で疑問視されはじめた会計処理をGEが行っていたとしたら、いったいGEの輝かしい成功は何だったのか?
これは大きく、劇的な変化だった。GEは投資家からの信頼が厚く、IR活動が評価され、1990年代には投資専門誌に「株主重視」の姿勢を詳しく報じられたこともある。だが、そう評価されていた時期に、GEは他社が行っていた四半期決算を説明するためのオンライン会議も行わず、決算発表も短く、内容も大ざっぱだった。投資家は、どうやって数字を出したのかという疑問を感じても、株式のパフォーマンスには文句のつけようがなかった。
株主の多くは配当に満足しており、GEがどのようにしてそれほどの結果を出したかは、あまり気にしていなかった。配当額は急上昇し、価値が上がれば株式は分割され、四半期ごとに気前のよい配当がもたらされた。配当は、米国で最も有名な製造企業の、何百万人もいる株主の一人であることに対する、ささやかな報酬だった。だが多くの投資家が、エンロン事件で露呈した偽装工作を知り、これまでのGEの順調な業績にも疑いの目を向けはじめ、GEの将来に不安を抱いた。
イメルトと彼の部下たちは、ウェルチから引き継いだ会社が、約束どおりに堅実であることを証明しなければならないというプレッシャーを感じた。その重圧をはね返すには、GEを成長させるしかなかった。
問題は、そのために必要な経験がイメルトにはほとんどなかったことだ。巨大なコングロマリットの経営は、一つの事業部を担当することとは違う。イメルトは同僚たちに、「どんな仕事もはた目には簡単そうに見えるが、実際にやってみると難しいことがわかる」などと言いはじめた。
難しさの一因は、GEの構造にあった。一事業部の長であったときのイメルトは、自分の部門の売上げと利益だけを追いかけていればよかった。財務上の意思決定は、彼の仕事には含まれていなかった。成長のための投資戦略、新製品開発のための資金調達、需要に対応するための新工場の建設などは、各事業部のリーダーの仕事ではなかった。本社に資金を要請すれば事足りたからだ。GEのエリート経営者は、家の前でレモネードを売る子どもたちでさえやっている、基本的な決断をする必要がなかったのである。
GEの元幹部で、他社のCFOに就任したある人物は、GEでの自分の経験に大きな欠落があることに気づいた。GEではキャッシュについて考えたことがなかったというのだ。GEの財務部門が、四半期ごとに各事業部が稼いだキャッシュを集金し、それを分配していたからだ。移籍先の会社でCFOとして働きはじめて数週間後、彼はショックを受けた。担当者から、給料を払うための現金が足りないという電話がかかってきたのである。給料が払えないという事態を、彼は経験したことがなかった。それまで彼は、会社に出入りするお金を日々管理することが自分の仕事だとは知らなかったのである。
GEでは、バランスシートの管理は会社がやってくれる仕事なので─正確に言えば、ウェルチがやってくれる仕事なので─基本的に何も考える必要がなかった。だがこれからは、それをするのがイメルトの仕事になった。それは冷蔵庫のコンプレッサーを交換することとは違う。イメルトは友人たちに、就任後の数ヵ月間は息が詰まる思いだったと話している。
イメルトは、CEOの成功を測り、レガシーを決めるのは株価だと知っていた。自信喪失に陥ったわけではなく、目下の低迷は一時的なものであり、自分のビジョンをもっと強く投資家にアピールすればいいだけだと考えて自らを鼓舞した。
2002年になってまもなく、イメルトは2つの信念を説いて回るようになった。GEを新たな収益源と成長に向かわせる大きな変化が起ころうとしている、というのが一つ。もう一つは、GEの業績には確かな実体の裏付けがあることを投資家に知らせるために、これまでになく財務情報をオープンにする、というものだった。
「年次報告書や四半期報告書がニューヨークの電話帳みたいになっても、受け入れるしかない」と、彼はウォール・ストリート・ジャーナルに語った。