ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「すべての動物は性交後にゆううつになる」ラテン語の名句に隠された意味とは?Photo: Adobe Stock

ラテン語の名句に隠された意味とは?

Post coitum omne animal triste est.
ポスト・コイトゥム・オムネ・アニマル・トリステ・エスト
(すべての動物は性交後にゆううつになる)
※発音はローマ式発音(スコラ発音)を基準にしています。

 この名句は、ギリシャ出身の医師・哲学者であるクラウディウス・ガレヌス(Claudius Galenus、129~199 ※201年や217年死亡説もあり)の言葉です。ガレヌスはローマ時代の剣闘士 gladiator の外傷治療専門医だったとも言われています。

 そんな彼が残したこの一文は、法医学のみならず宗教学でも引用されるのですが、その意図は「大きく期待した瞬間が過ぎ去った後に、人は、自分の力ではどうにもできないもっと大きな何かを逃したような虚しさを感じるものだ」というものです。

 これはつまり、たとえ愛する人がそばにいたとしても、個人的、社会的な自我が実現されていなければ、「人間は孤独で寂しく疎外された存在である」ということと、向き合わなければならないと解釈できます。

 もっと言えば、人間は霊的な動物として、理性的人間 homo sapiens であると同時に宗教的人間 homo religiosus を目指すようになったということです。これは宗教的にこの名句を解釈したものです。

 ある意味、人間は自らを人間と自覚して以来、神を崇拝し始めたのだと言えるでしょう。したがって、宗教とは、単に人間が強力な絶対者に従ったものではなく、その時代を支配していた冷酷な体制と不条理な価値観にあえぐ生活の中で、生きる意味と価値を再発見するための苦闘から始まったと言うこともできます。

 すなわち、初期の人類は人生の価値と意味を、神的なものから“類推 analogia”しようとしていたのでしょう。神が人間を必要としたのではなく、人間が神を必要としたのです。ここで「作られた神」という概念が登場することになります。

Deus non indiget nostri, sed nos indigemus Dei.
デウス・ノン・インディチェット・ノストリ、セド・ノス・インディチェムス・デイ
(神が我々を必要としたのではなく、我々が神を必要とするのだ)

 こうして始まった宗教は、王や皇帝が正しく神に由来するという支配階級の主張を正当化したのはもちろんのこと、民衆の日常のさまざまなことにも深く浸透していきました。

 今日、この名句を私たちの日常に取り入れるなら「目標とした社会的地位や名声を追い求めた後に人間が感じる感情は、満足ではなくゆううつである」と解釈できます。

 実際に、情熱的に望んだ瞬間が一気に過ぎ去ると、人間は虚無感を覚えるものです。ステージ上で喝采を浴びていた歌手が、帰宅して一人で家にいるときに感じる感情などまさにこれではないでしょうか。

 私が法医学の授業を受けた際にも、この名句を引き合いに出しながら、芸能人が向精神薬に手を出してしまう環境について説明されたことがあります。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)