ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「メンタルが超安定する」たった1つの習慣Photo: Adobe Stock

「先延ばし」の意外すぎるメリット

 私は、学生たちに常々「今日できることは明日に延ばそう」と言っています。

「今日できることを翌日に延ばす」なんて、とても胸を張れたことではないように思えますね。でも、みなさんも考えてみてください。どんなことを明日に先延ばししたいですか?

 私は迷わずこう答えます。「絶望したり、投げ出したくなりそうな気持ちを明日に先延ばしします」とね。

 人間は毎日栄養を摂取してこそ生きていけます。不足しても過剰であってもいけません。同じように、私たちが経験し、受け入れなければならない感情にも、毎日の限界値があると私は考えています。

 1日に摂取できる量の限界を超えた感情は、翌日に持ち越すしかありません。そんな感情の中でも、私は絶望と諦めが一番嫌いです。これは人によってさまざまでしょうね。

 新約聖書『マタイによる福音書』6章34節にこのような言葉があります。

Nolite ergo esse solliciti in crastinum crastinus enim dies sollicitus erit sibi ipse sufficit diei malitia sua.
(明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である)

 マタイは、信仰の人生が実現できれば、人間は明日の心配から解放されて、自信を持って今日を生きていけるのだと理解しました。つまり、“人生とは神から与えられた贈り物である”と受け止めて生きれば、明日のことで思い煩うことなどないと考えたのです。もちろんこれはあくまでも聖書的な解釈ですけどね。

 思うに、この一文は人間が耐えられる1日の痛みの値を述べた言葉ではないでしょうか。1日で我慢できる感情の許容範囲を超えたら、人はそこで悪あがきせずにその感情を翌日に持ち越すべきです。

 もちろん、これは口で言うほど生易しいことではありません。誰だって何かひとつでもこじれると1日中そのことが頭を離れず、夜も眠れなくなる始末です。

 しかしマイナスな感情ごと翌日に放り投げてしまったらどうでしょう? 本当に今すぐにでも投げ出してしまいたい気持ちや、誰かに対する怒りのようなものを翌日に先延ばしすることができたら、どれほど楽でしょうか?

 つらいときには、絶望や投げ出したい気持ち、怒りを、しばし明日に送ってしまいましょう。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)

【訂正】記事初出時より以下の通り訂正しました。
・ラテン語のスペル「sucit」を「sufficit」に訂正しました。(22年11月9日12:54 書籍オンライン編集部)