臨教審には4つの部会が設置されたが、大きなバトルとなったのが、第一部会と第三部会との対立であった。「21世紀を展望した教育の在り方」を検討課題とする第一部会は「教育の自由化」を推進する立場をとった。
それに対して、「初等中等教育の改革」をミッションとする第三部会は自由化路線に大きく反発するスタンスをとった。本書の用語で言うと、新自由主義を推進しようとする第一部会とそれに真っ向から異議を唱える第三部会との対立の構図である。
前者は中曽根首相や財界の意向が、後者は文部省(当時)をトップとする教育行政の意向が色濃く反映されたものであった。最終的には、「自由化」という表現は取り下げられ、それに代わって「個性重視の原則」という言葉が折衷案的に採られることとなった。
すなわち、規制緩和によって教育に自由競争の原理を持ち込み、活性化を図ろうという「自由化」の原則はこの時点では採用されることなく、それに代わって、「個性重視」という理念によって教育システムの柔軟化・多様化を図っていこうという方向性が示されたのである。
教育行政学者の市川昭午は、それを「教育の自由化」から「自由な教育化」へという表現で定式化している。臨教審以降、学校設置基準をはじめとする規制緩和、制度の柔軟化や運用の弾力化、教育内容・方法の多様化、「学校へいかない自由」も含めた学習者の自由の容認や選択幅の拡大、私学シェアの増大や教育産業の振興、公費支出の抑制と私費負担の増大といった方策が積極的に採られるようになっていく。
そのなかで、1990年代に中心的な争点の一つとなったのが、高校の多様化という問題であった。それまでの日本の教育は「唯一最善の制度」(the one best system)を志向するものであったが、ペアレントクラシーの進行とともに、多様な選択肢を用意し、その中で消費者(保護者・子ども)に選んでもらう方が現実的かつ効率的であるという発想が強まってくる。その焦点となったのが高校であった。
普通科総合選択制高校、単位制高校、総合学科といった新たな学校種別が設計され、高校教育のメニューの多様化が各地で進展していくこととなった。その背景にあったのは、偏差値輪切り体制の常態化や高校生人口の減少に伴う高校再編の必要性の高まりといった社会的要因であった。多様なメニューを用意することで、少しでも輪切り体制を弱め、中学校における成績中・下位層のモチベーションを高めることが目指されたのである。
2000年代に入って、教育改革における新自由主義的傾向は着実に強まっていくことになる。それを象徴するのが学校選択制の広がりという現象であった。特に2000年における東京都品川区での学校選択制の導入は、一つのセンセーションを巻き起こした。