ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「もっと人からほめられたい」不純な動機が世界を変える、たった1つの理由Photo: Adobe Stock

「不純な動機」をもっと大切に

 授業初日は、学生たちの緊張をほぐすためにも「ラテン語の授業を選択しようと思った動機を聞かせてください」といった軽い質問から入るようにしていました。

 学生たちは、「先輩(または友人)の勧めで」とか「ラテン語がヨーロッパ言語の母語なのに韓国では学べるところが少なく、よい機会だと思ったから」「ラテン語を学んでいるというだけで、できる人だと思われそうだから(笑)」など、それぞれの思いを話してくれました。

 この「できる人だと思われそうだから」という答えには、私も思わずうなり、笑ってしまいました。実に言い得て妙だと思ったからです。

 みなさんも思い出してみてください。子どものころに勉強をがんばれたのは、親から褒められたいとか、友達に負けたくないからなどの単純明快な理由があったはずです。

 しかし、大人になった今は、どうでしょうか?

 私は、何かを学び始めるときにそれほどの大義名分は必要ないと考えています。「できる人と思われたいから」「ちょっとした見栄で」始めることの何がいけないのでしょうか? 世の中の偉業の多くも、最初の動機は些細なことから始まっています。

 今や世界中の人たちが見ているYouTubeも、最初はただ面白いビデオクリップを不特定多数の人たちと共有したいという軽い気持ちから始まったと言います。はなから偉大な使命を抱いて巨大な目標に向かって突き進む人は、それほど多くはないものです。

 人生の長い旅路の中の一部である学問に打ち込む過程は、ともすると「褒められたい」「見栄を張りたい」という幼稚な気持ちから始まっているのかもしれません。

 学びには始まりはありますが、終わりはないと言われています。

 ラテン語に限らず、勉強は楽しみ以外のものも伴います。人によってはまったく楽しくないこともあり得ます。しかも大きな目標まで要求されたら、一歩踏み出す前から息切れしかねません。

 だからもし、あなたが何かに関心を持って学んでみようと思うのなら、なぜそれに興味を持つようになったのか、なぜ学びたくなったのかを、少し振り返ってみてください。

 そこで自分の心の中に幼稚な動機を発見したとしても、それを否定したり恥ずかしがったりせずに、その学びによって今後何ができるか、どんな面白いものが生み出せるのかを想像してみてはいかがでしょうか。きっとまた違ったきっかけになってくれるはずです。

 ラテン語の授業に取り組む前に、みなさんのその気持ちが、単なる子どもじみた幼稚さではなく「偉大なる幼稚さ」であるという事実を、ぜひ忘れないでください。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)