ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「本当に勉強ができる人」が無意識にやっていることPhoto: Adobe Stock

偉大な哲学者が語った「勉強の本質」

 古代ローマの哲学者のセネカは「学校のためではなく、人生のために学ぶのだ」と説きました。

 今、私たちは言語学習の目的をどこに据えるかを考えなければなりません。言語は自分を表現するための手段であり、世界を理解するための枠組みです。

 韓国社会ではどうもその点を見落としているように思います。大学入試の外国語試験の長文問題を見てもそうです。ネイティブでさえわかりにくい試験問題で、受験生が韓国語で書かれた解説を読んで頭を抱えたとしても無理からぬことです。

 10年近く学んできた外国語の最終目標が、試験問題に正解するためだなんて寂しい限りです。読解力を評価するのが目的なら、むしろ、歴史、文学、芸術などの上質な古典を教えるほうがよっぽど価値があると思います。

「知識を得ること」を目的にしない

 言語学習の目的を語ることは、ほかの学問をする上でもよき羅針盤となってくれます。知識を得る行為そのものが学問の目的になってはいけません。

 学問とは、知るだけに留まらず、その知の窓から人間と人生を見つめ、より良い観点と代案を提示するものでもあります。

 これこそが「私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ」という言葉通りの勉強のあり方となるでしょう。

 私は今でも、勉強を続ける上で本質的な目的を忘れないためにも「私はなぜ勉強するのか? 何のために、誰のために学ぶのか?」といつも自問しています。みなさんはいかがでしょうか?

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)