全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
今回は「人類の教師」とも称される古代ギリシャのソクラテスを取り上げる。市民や有識者に問答をふっかけて「無知の知」を説いたソクラテス。言い負かされた逆恨みから裁判にかけられると、死刑判決をあっさりと受け入れた。状況的には逃亡できたにもかかわらず、ソクラテスはなぜ死を選んだのだろうか。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。
偉大な哲学者
世界で最も知られた哲学者といってよいでしょう。古代ギリシャのソクラテスのことです。
一体、どんな人物だったのでしょうか。
ソクラテスは紀元前469年頃にアテナイに生まれました。スパルタと戦ったペロポネソス戦争では、重装歩兵として従軍。その後、哲学者としての生活に専念することになりました。
ソクラテス自身は著作を一切残しておらず、弟子のプラトンが書き残した書物が、ソクラテスの考え方を後世に伝えています。
同時代に生きた人々に対しては、街頭や広場などで問答をふっかけるというスタイルで、ソクラテスはその名を馳せることになります。
睨みをきかしながら大股で歩く
喜劇詩人のアリストファネスは『雲』という戯曲で、ソクラテスの様子をこんなふうに描写しています。
「大股で歩き、左右を横目で睨み、裸足でいて、いかなる災いにも動じない厳めしさを持つ」
なかなかのインパクトですが、さらに「髪も切らず油も塗らず、身体を洗いに風呂にも行かなかった」とか。
異様な迫力を持って、ソクラテスは道行く人たちと熱く議論したようです。
青年との対話
弟子のプラトンによる『メノン』という著作から、ソクラテスによる問答がいかに行われたかを、うかがい知ることができます。登場するのは、アテナイを訪問していた青年のメノンです。
メノンは「徳を教えられるのか?」というテーマで、ソクラテスに議論を挑んでいます。
ところが、ソクラテスは「徳を教えられるかどうか」について自分は「全く知らない」と言うばかりか、そもそも「徳」が何かさえもわからないと言い出します。
肩透かしをくらったメノン。「徳とは何か」と必死に定義づけしようとしますが、ことごとくソクラテスに反論されてしまいます。しまいには、行き詰まってしまい、苦し紛れにこんなことを言います。
「あなたという人は、顔かたちそのほか、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりです」
いきなり容姿への暴言は許されませんが、メノンはさらにこう続けて、言い負かされた自分の状況について語りました。
「あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、私もあなたに麻痺させられて、身動きがとれなくなってしまいました」
それに対してソクラテスは「しびれているのは自分も同じ」と返答。すなわち、自分もあなたと同じく「徳が何か」について無知だと表明し、「一緒に探求しよう」と呼びかけています。
このように、ソクラテスは「無知の知(不知の自覚)」、つまり「その物事について知らない、ということを知ろう」と促すスタイルで、知識人たちをも論破していきます。
そんな斬新なスタイルから、若者たちから広く支持されることになりました。
死刑判決を言い渡される
しかし、やり込められて恥をかかされたほうは、たまったものではありません。「若者たちを堕落させている」、そんないいがかりをつけられて、ソクラテスは告訴されてしまいます。
裁判にかけられても、頑として自分の罪を認めないソクラテス。むしろ「私は社会貢献をしている」と言い張ったうえに、陪審員たちの前でこう言い放ったのです。
「私は死刑になるどころか、迎賓館でごちそうされるべきである」
その結果、ソクラテスに下された判決はなんと「死刑」でした。ソクラテスが陪審員たちを挑発したことで、最悪の結果を招いてしまったのです。
それでも、この時点ではまだ、ソクラテスには生きる道が残されていました。
というのも、死刑執行まではまだ日にちがあるうえに、当局者は、ソクラテスの逃亡を黙認する姿勢さえ見せました。頑固な態度に死刑判決を下したものの、ソクラテスが希望すれば国外追放でよしとする考えが、もともと陪審員たちにはあったからです。
そのため、ソクラテスが幽閉されると、友人や支援者たちが、ソクラテスが国外に脱出するための計画を何度となく立てています。
ところが、ソクラテスはその申し出を拒絶。死刑執行の日までの約30日間を、ソクラテスは牢獄で過ごすことにしました。逃げられるにもかかわらず、死刑を受け入れるという選択肢をとったのです。
名言「悪法もまた法なり」の真実
なぜ、ソクラテスは死刑を受け入れたのでしょうか。その答えとして、しばしば使われる言葉があります。
「悪法もまた法なり」
たとえ納得がいかない不十分な法律でも、法律は法律で守るべきである――。ソクラテスはそんな言葉とともに、死を選んだといわれています。
しかし、実のところ、有名なこの言葉は、プラトンの著作には出てきません。ソクラテスの裁判資料を精査した加来彰俊氏も『ソクラテスはなぜ死んだのか』(岩波書店)で「<悪法もまた法である>と彼が言った証拠はどこにもない」と断じています。
確かにソクラテスの生き方を見ても、この言葉は違和感をぬぐえません。ソクラテスはアテナイの国法に従って人生を送ってきたものの、法の欠点もきちんと指摘してきました。
「悪法も法である」とソクラテスが言ったという逸話は、為政者の都合のよい論理として、流布されていたものと考えるのが自然でしょう。
この言葉の本当の原典は定かではありませんが、ラテン語に"Dura lex, sed lex"(英語では"The law is harsh, but it is the law." )ということわざがあります。この翻訳が「悪法も法である」として広まったのではないか、ともいわれています(正確な訳は「法は過酷であるが、それも法である」)。
もしかしたら、ことわざの実例として、ソクラテス裁判が多く用いられて、彼自身の言葉として流布されたのかもしれません。
ソクラテスの最期
ソクラテスの最期の日。ソクラテスは自分を思ってくれる友人たちと楽しい一時を過ごしました。議論をしながら談笑し、いつものように明るく振る舞うソクラテス。それを見ていた友人たちのほうが、涙に暮れてしまいます。
夕方になると、死刑に使われる毒ニンジンの汁を、お茶でも飲み干すかのようにぐいっと飲みました。
ソクラテスはしばらく歩き回り、体に毒が回るのを待ちました。そしてベッドに横たわると、こう言い残して、71年の生涯を閉じました。 「そうだ、アスクレピオス神にニワトリの供え物をするのを忘れていた。忘れずに供えてくれたまえ」
アスクレピオス神とは「医学の神」のこと。まるで眠る前のような、自然な言葉で、ソクラテスはあの世へと旅立ったのです。
ソクラテスがよく口にした言葉に、次のようなものがあります。
「なによりも大切にすべきは、ただ生きることではなく、より良く生きることである」
ソクラテスは「悪法もまた法である」などと理不尽を受け入れたわけではなく、「より良く生きる」ために、じたばたせず悠然とした人生の最期を選んだのでしょう。
世界史の人物を深掘りする
『14歳からの世界史』では、ソクラテスと合わせて、ソクラテスの弟子にあたるプラトン、そしてプラトンの弟子にあたるアリストトレスについて、簡潔に系統立てて解説がなされています。
人物の関係性をふまえながら、個々の逸話を深掘りしていけば、偉人のふるまいが周囲にどんな影響を与えたかを、体系的に理解することができるでしょう。
【参考文献】
アリストパネース『雲』(高津春繁訳・岩波文庫)
プラトン『メノン』(藤沢令夫訳・岩波文庫)
白石浩一『ソクラテスの生き方』(社会思想社)
中野幸次『ソクラテス』(清水書院)
加来彰俊『ソクラテスはなぜ死んだのか』(岩波書店)