わたしたちはみな、すこしでも幸福になろうと懸命に努力している。だがそれは、巧妙に仕組まれた「罠」だと述べるのが、エドガー・カバナス、エヴァ・イルーズの『ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常』(高里ひろ訳、みすず書房)だ。

 カバナスはスペインの心理学者、イルーズはイスラエルの社会学・人類学者で、本書ではポジティブ心理学と成功哲学のからみあった関係を論じている。

 タイトルの「ハッピークラシー(Happycracy)」だが、「クラシー(cracy)」は神政=テオクラシー(theocracy)や貴族政=アリストクラシー(aristocracy)のような社会・政治制度のことだから、「幸せの専制」という意味になる。かつての神や貴族階級のように、現代社会では「幸せ」がわたしたちを支配しているというのが著者たちの主張だ。

幸福になろうと懸命に努力していることは「罠」なのか?ポジティブ心理学と「幸せ産業」 イラスト:user Tanushka / PIXTA(ピクスタ)

「自分らしく生きる」ために「自分」を変えていく心理学

 1998年にアメリカ心理学会(APA)の会長に選出されたマーティン・セリグマンは、これからの心理学は人間性のポジティブな側面(幸せ)を積極的に研究すべきだと宣言し、ポジティブ心理学を創始した。本書では、21世紀に大きな影響力をもつようになったポジティブ心理学を「新自由主義(ネオリベ)」との関係で論じているが、私はこの(評判の悪い)イデオロギーを悪魔化し、諸悪の根源のように見なす議論には懐疑的だ。そこでここでは、私の理解に沿って著者たちの主張をまとめてみたい。

 現代社会の特徴は「リベラル化」の大きな潮流で、それは「自分らしく生きたい」という価値観のことだ。その源流はギリシア・ローマまで遡れるのかもしれないが、この人類史的にはきわめて奇妙な価値観がパンデミックのように世界中の若者たちを虜にしたのは、1960年代後半のカウンターカルチャー(セックス・ドラッグ・ロックンロール)とヒッピームーヴメント(フラワーチルドレン)からだろう。

「自分らしく生きたい」という願いは、必然的に、2つの道に分かれていく。

 ひとつは、「自分らしく生きる」ことを阻んでいる制度や法律、社会の仕組み(システム)と戦い、それを変えていくことだ。これはアメリカでは公民権運動・ベトナム反戦運動、フランスでは5月革命、日本では全共闘運動となって社会を揺り動かした。

 もうひとつは、「自分らしく生きる」ために「自分」を変えていくことだ。この個人主義は「ミーイズム」などと呼ばれたが、「わたし(自分)」に過剰な関心が集まるのは後期近代のリベラル化の必然だった。

 60年代には「自分探し」や「インナートリップ」が流行し、ドラッグ、ヨーガ、有象無象の精神療法、カルト的な心霊治療が片っ端から試され、廃人と自殺者の山をつくった。この「実験」の成果は、近年になってようやく正当に評価されるようになったばかりだ。――LSDなど幻覚剤が重度のうつ病に効果があることが注目されているが、これは半世紀前にすでに指摘されていた。

 誰もが「自分らしく生きる」ことを目指すようになった60年代に、もっとも大きな影響力をもった心理学者がアブラハム・マズローだ。

 ポグロムを逃れてアメリカに移住したユダヤ系ロシア移民の家庭に生まれたマズローは、こころのネガティブな側面ばかりを強調するフロイトの精神分析学や、ラットと人間を同一視するかのようなB.F.スキナーの行動主義心理学に反発し、創造性や至高体験、自己実現を重視する「人間性心理学」を唱えた。

 マズローは、1962年に刊行され大きな反響を呼んだ主著『完全なる人間 魂のめざすもの』で、「ひとの精神的本性は善であり(すくなくとも必然的に悪ではなく)、生存のための基本的欲求が満たされれば、ひとはごく自然に善なる本性に向けて成長していく」と説いた。

 いまではよく知られるようになった「欲求の五段階説」では、ひとには満たされない欲求を充足しようとする本性があり、その欲求は息をし、食べ、眠り、セックスするという基本的なものから安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求へと上昇し、自己実現の欲求へと至る。人格形成の目標、すなわち「自分らしく生きる」とは、“自己実現(self-actualization)”なのだ。

 だがその後、人間性心理学(ヒューマン・ポテンシャル運動)は停滞していく。ひとつには自己啓発(人格改造)セミナーと結びついて多くの社会問題を引き起こしたからだが、より大きな問題は、自己実現を科学(アカデミズム)の枠組みで議論することが難しかったからだろう。だが90年代後半になると、脳科学の急速な進歩によって、自然科学にもとづいて脳(こころ)を論じることが可能になってきた。

 そこでセリグマンは、使い古された「人間性心理学」を捨て、新たに「ポジティブ心理学」という分野を「創造」して、『これからの心理学は「幸せ(ポジティビティ)」を科学しなければならない』と宣言したのだ。