東京大空襲、米軍が人道主義を掲げながら「焼夷弾爆撃」で焼き尽くした理由Photo:Keystone-France/gettyimages

第二次世界大戦末期、米軍によるわずか1年足らずの日本への空爆で約46万人のもの命が奪われた。特に1945年3月10日深夜の東京大空襲は激しく、一夜にして12万人の命が失われたといわれている(正確な犠牲者の数字は判明していない)。本来、米国の空軍(陸軍航空隊)は、敵の心臓部だけをピンポイントで爆撃する精密爆撃を掲げていたはずだった。しかし実は、その裏で一帯を焼き尽くす焼夷弾による爆撃の準備を同時にしていたことが分かった。東京の街並みを再現し、焼き尽くす実験をするほどの入念さだった。しかも、空軍の父と称される幹部ヘンリー・アーノルドは「これは野蛮な戦争」だと自認すらしていた。

※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

精密爆撃を掲げつつも
実は焼夷弾空爆も準備

 航空軍の真価が問われた日本への空爆。長年練り上げてきた精密爆撃では、思うような成果を上げることができなかった。切り札だったB-29は、エンジントラブルが相次いだ。超高高度からの爆撃は、気象条件に阻まれたことで机上の空論となり、ほとんど役に立たなくなってしまった。万策尽きたかに思えたアーノルドら航空軍。だが、突如、新たな秘策として「焼夷弾」が浮上した。あたり一帯を焼き尽くす焼夷弾による地域爆撃は、敵の心臓部をピンポイントで爆撃する精密爆撃とは、全く考え方が異なる。掲げてきた人道主義とも矛盾する。アーノルドは、一体いつから焼夷弾を使った空爆を考え始めていたのだろうか。私たちは、改めて調べてみることにした。

 航空軍が策定した空爆計画の詳細を知るために、再びアラバマ州にあるマクスウェル空軍基地を訪れた。かつて陸軍航空隊戦術学校があったこの場所には、1世紀に及ぶ空軍の歴史的な資料が保管されている。

 特別な許可を得て入室した資料庫は、まるで巨大な古本倉庫のようだった。だだっ広い部屋の端から端まで、ただ数百の本棚だけがずらりと並んでいる。航空軍が設立された1907年からの記録が、年代ごとにエリアを分けて整理されていた。本棚の一つ一つには、50センチ四方のボックスがぎっしり収められている。数万を超える膨大な文書は、ジャンルによって細かく分類されて、ボックスにまとめられていた。70年以上前に作られた日本への空爆計画は、残されているのか。太平洋戦争中の作戦資料を探す。ボックスのラベルに書かれた年号を頼りに、1940年から順番に確認していく。すると、1943年代のボックスの一つから、なにやら分厚い資料が見つかった。革張りの表紙からして、重要そうだった。刻まれたタイトルを見て、確信する。