1945年3月10日の深夜。米軍の爆撃機B-29が32万7000発もの大量の焼夷弾を一気に投下、東京の台東区、墨田区、江東区は火の海に。一夜にして12万人の命が失われたと言われているが、正確な数字はいまだに判明していない。実は、この東京大空襲の決行には米軍内の縄張り争いが大きく影響している。当時は陸軍内の組織として冷遇されていた空軍(陸軍航空隊)は華々しい実績を上げる必要があったのだ。そこで、空軍の父と称されるヘンリー・アーノルドは「B-29の取り合い」とでもいうような陸軍、海軍との縄張り争いを乗り越え、東京の市街地爆撃の実現に邁進していく。
陸軍の補佐ではなく「独立した空軍」へ
陸軍航空隊には日本の空爆が必要だった
迷彩の軍服を着た軍人たちが2列の隊列を組み、私たちのすぐ脇を走り去っていく。その先には広々とした飛行場があった。数十機の戦闘機が等間隔に並ぶ様は壮観である。アラバマ州にあるマクスウェル空軍基地。この基地内にかつてアーノルドら陸軍航空隊が、航空戦術の基礎などを教えていた建物が残されている。1920年に設立された「陸軍航空隊戦術学校」だ。
私たちを案内してくれたダニエル・ホールマン博士(空軍所属のオフィシャル・ヒストリアン)によると、現存する建物は1931年に建て替えられたものだという。
「いま、この建物は空軍大学の本部が置かれていますが、インテリアなども含めて、見た目はほとんど航空隊戦術学校の教室があった1930年代当時のままです」
大理石の敷き詰められたホールに入ると、大きな肖像画が目に留まった。思わず「あっ」と声を上げてしまう。見知った人物だったからだ。ホールマン博士が驚き、笑いながら解説してくれた。
「ウィリアム・ビリー・ミッチェルをご存じですか? これはミッチェルのオリジナルの肖像画で、第一次世界大戦の頃の姿が描かれています。彼は、空軍にとってとても重要な人物です。アメリカ空軍の父と考える人もいます。ミッチェルが『アメリカは独立した空軍を持たなければならない』と主張したことが全ての始まりです」
1926年に軍を除隊したはずのミッチェル。だが彼の思想は、陸軍航空隊の教義として連綿と受け継がれていたのだ。その証左は、航空戦術を教える教本に色濃く表れている。
1920年の設立初期の教本に目を通すと、次のように記されている。「航空機は、地上軍を補佐する役割を担うのであり、戦争中の攻撃対象は都市ではなく、軍隊である」とある。当時の陸軍の一般的な軍隊観が反映されていた。
だが、ミッチェルが除隊した年、1926年の教本「空軍の協同的使用」では、陸軍への忖度をやめたかのように思い切った改変を行っている。「アメリカの防衛を考えると、“独立した空軍”が必要である」と陸軍の意向と真っ向から対立するような考えを盛り込んだのだ。
さらに「戦争時の一番重要な攻撃目標は、敵国家の心臓部である」とし「航空戦力で敵の重要なポイントを破壊することで、戦争は少ない損失で終わらせることができる」と説いている。まさに、ミッチェルが説いていた爆撃理論を継承するような戦術が記されていたのだ。