東京大空襲、米軍は「毒ガス空爆」も計画していた…日本人1450万人が攻撃対象の戦慄Photo:Galerie Bilderwelt/gettyimages

1945年3月10日、一夜にして12万人の命が失われたといわれる東京大空襲。筆者の調査により、実は米国は焼夷弾による爆撃のみならず、毒ガス攻撃も計画していたことが判明。標的にされていた都市は七つ、東京、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸、八幡だった。しかも、住宅密集地やビジネス街が想定され、ターゲットは当時の日本国民の4分の1に当たる1450万人というおぞましいものだった。「米空軍の父」と称される陸軍航空隊の幹部ヘンリー・アーノルドらの戦略、思想からひもといていく。

※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

米軍内で脈々と発展していった
一般市民を攻撃目標とする航空戦略

 一般市民の犠牲を厭わない無差別爆撃。人道主義を掲げた精密爆撃とは、全く異なる空爆戦略は、いつ生まれたのか。そして、その発想の原点はどこにあるのか。航空隊戦術学校では、長らく精密爆撃が研究されてきたはずだった。しかし、航空戦略を洗練することが使命だった戦術学校では、同じように無差別爆撃の効果についても密かに検討されていたかも知れない。アーノルドが、未知の戦略に航空軍の命運を託すとは思えなかった。焼夷弾についても、秘密裏に緻密な実験が繰り返されていたのだ。私たちは、改めて、航空軍の戦略をさらに遡ってみることにした。幸い、マクスウェル空軍基地には、これまでの航空戦略の変遷がきちんと残されている。

 調べる上で気になっていたのが、ウィリアム・ミッチェルの存在だった。アーノルドが師と仰いでいた男で、航空軍の戦略の基礎を作りあげた人物だ。一般市民を標的とする航空戦略も、ミッチェルが提唱していたのではないか。もう一度、残されているミッチェルの資料を紐解くことにした。彼が航空戦略についての思想をまとめるようになったのは、第一次世界大戦のあとからである。1919年以降のボックスに手がかりがあるはずだ。

 そして、やはりと言うべきか、そのレポートは見つかった。ミッチェルは、無差別爆撃の原点とも言える航空戦略思想を書き記していたのだ。1919年、東京大空襲が実行される20年以上も前のことである。そのレポートには、一般市民への空爆の有効性が次のように述べられていた。

「大国間で行われる戦争は、今日では、その国の全ての要素、男、女、子どもを含んでいる。ここに女性と子どもを含むのは、単なる感情的な理由でも、経済的な理由でもなく、第一次世界大戦において彼らが実際に軍事的な役割を担うようになったからである。女性や子どもは軍需品やその他の必要な物資の生産に関わり、国の産業や軍事力を支える。このことから、すべての者は戦闘員とみなされるべきだ。そのため、戦争中に彼らの財産を破壊し損害を与え、敵の戦力を潰すことはベストな戦略である。女性や子どもは、こうした攻撃に耐えられないだろう」

 ミッチェルは、敵国の一般市民も攻撃対象と見なしていた。敵国家の中枢で戦争活動を支えていることから“戦闘員の一部”だと位置づけた。その上で、戦争を早く終わらせるための一番の近道は、市民を恐怖に陥れ、彼らの戦争への意欲を失わせることだと考えたのだ。兵士たちが直接ぶつかり合い、多くの命が失われた第一次世界大戦より、その方が犠牲者も少なくてすむと説いていた。