【検証】12万人殺害「東京大空襲」指揮の米軍司令官に良心の呵責はあったかPhoto:Universal History Archive/gettyimages

東京大空襲を指揮したのは当時38歳だったカーチス・ルメイ。1945年3月10日の深夜、米軍のB-29による爆撃で、一夜にして12万人の命が失われたと言われている(正確な数字はいまだに判明していない)。非人道的な人物として語られることの多いルメイだが、実際、東京大空襲にどのような感情を抱いていたのだろうか。上官に当たる空軍の父と称されるヘンリー・アーノルドからのプレッシャーはいかほどだったのか。検証していく。

※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

一晩で東京下町の130万人が火の海に
大空襲実行のルメイは何を思ったのか

 1945年3月9日の夕方。325機のB-29が出撃準備をしていた。より多くの爆弾を積むため、機関銃などの戦闘火器はすべて取り外された。一機当たりの平均爆弾搭載量は、通常の3倍にもなった。あわせて1600トンを超える焼夷弾が積み込まれ、過去最大の空爆作戦が行われようとしていた。標的は、東京の市街地。アーノルドらが水面下で準備してきた焼夷弾空爆計画が、ついに実行されることになる。ルメイは、この空爆作戦を実行するにあたり、誰の許可も取ろうとしなかったという。

「アーノルドには、話をせずに実行するつもりだった。もしアーノルドの許可をもらったのに失敗したら、アーノルドの責任になるだろう。黙って実行すれば失敗しても『愚かな部下が勝手に暴挙に出たから彼を首にした』と言って、他の誰かに私の任務を引き継がせ、B-29の作戦は続けられる。アーノルドに迷惑をかけることだけは避けたかった。それは誰のものでもなく、私の決断であり、私の責任である。この作戦にかかっていたのは、アーノルドの首ではなく、私の首だったのだ。だから、自分で実行することに決めた」(肉声テープより)

 航空軍の命運を賭けた空爆作戦。ルメイは、1人で責任を背負い込んだ。過去に例がない300機を超える大規模な攻撃。搭乗員たちは緊張と不安を抱えていた。低空飛行の戦術は、諸刃の剣だった。特に、ヨーロッパでの空爆作戦を経験していた隊員にとっては、低空飛行でドイツ空軍の餌食となった記憶を思い起こさせた。今回の作戦も、うまくいく保証はない。それでもルメイは作戦を決行する。

 午後6時15分。B-29が一機、また一機と飛び立っていった。先頭を飛んで目標に指示弾を投下する爆撃先導機には、最も優秀で経験豊富なメンバーを配置した。ルメイは、士気を向上させるために目標上空まで部下を率いようとしたが、機密保持のために認められなかった。万が一にも撃墜されて、捕虜になることを防ぐことが優先された。このとき、ルメイはすでに原爆の概要を聞いていたからだった。「爆弾投下」の第一報を、グアムの基地で待つことになった。東京到着は、夜中になると見られていた。作戦を中枢で担った参謀や将校たちには、仮眠を取るよう命じた。だが、ルメイは、眠れなかった。不確定要素が多く、気持ちが落ち着かなかったという。作戦司令室のベンチに腰掛け、そのときを待った。