東京大空襲、直前で「超高高度・昼」から「低空・深夜」の爆撃に変更した理由Photo:Keystone-France/gettyimages

1945年3月10日の深夜、米軍の爆撃機B-29により東京大空襲が行われた。一夜にして12万人の命が失われたと言われているが、正確な数字はいまだに判明していない。実は当初、B-29は超高高度1万メートルでの飛行を想定していたが、直前になって2000メートルに変更された。「低空」かつ「深夜」になった理由を明らかにする。

※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

東京大空襲実行の直前に
「超高高度」から「低空」へ転換

 日本への焼夷弾爆撃は、入念に準備されていた。実験を繰り返し、最も効果的に街を焼き尽くす方法まで検証されていたのだ。あとは、どのように実行するか。それだけであった。その実行役を担うことになったのが、カーチス・ルメイだった。焼夷弾爆撃を成功させるための最後のカギとなる空爆計画。航空軍の命運を握る計画の策定は、38歳の指揮官の手に委ねられた。

 アーノルドから焼夷弾爆撃の指令が下ってから10日あまり。ルメイは、どうすれば日本への空爆で成果を上げられるか考え続けていた。

 大きな障害となっていたのは、気象状況だった。航空軍が爆撃を行っていた11月~2月の間、東京上空の天候は、常に厚い雲に覆われていた。B-29が超高高度から目視で爆撃できる日は、ひと月に7日程度しかなく、最悪の時期は3日しかなかった。さらに、天気に恵まれた日でもジェット気流に阻まれた。超高高度から目視で行う精密爆撃は、目的地が好天候であることを前提にしており、日本にはまったくこの条件が当てはまらなかった。

 B-29の使用方法を変えなければ、成果をあげられない。1945年3月上旬、ルメイは、一つの答えにたどり着く。

「私は、日本の偵察写真をすべて確認している中で、あることに気付いた。ドイツ人が防衛で使っていたような低空用対空砲火は見当たらなかったのだ。このことに気付いたとき、自分の中で“これだ”と確信した。レーダーも使い物にならないことを知っていたので、気圧などを調整することで、B-29をできる限り低く飛ばせるようにした。私たちは、高すぎる位置から爆撃をしていて、私が思うには、そのせいでB-29に負担がかかりすぎていた」(肉声テープより)

 ルメイが思いついたのは、B-29を低空飛行させる爆撃計画。これまでの超高高度1万メートルを捨て、2000メートル付近まで高度をさげるという思い切った作戦だった。