「現代史上の3大経済学者」というと、カール・マルクス(1818~1883)、J.M.ケインズ(1883~1946)、J.A.シュンペーター(1883~1950)の3人を挙げることができる。2023年はマルクス没後140年、ケインズとシュンペーターの生誕140年という節目の年に当たる。中でも経営学に大きな影響を与えたのがシュンペーターだ。シュンペーターは、「企業家のイノベーションによる創造的破壊」こそ、経済成長(好況)の原動力だと論じた。そのシュンペーターの名前を日本で初めて活字にしたのは意外にも、経済や経営の学者ではなく、かの文豪、森鷗外(1862~1922)だったのである。(コラムニスト 坪井賢一)
シュンペーターは28歳で『経済発展の理論』を書き上げた
ウィーン大学出身のJ.A.シュンペーターが、イノベーション(新結合)による経済成長論を展開する主著『経済発展の理論』(注1)を書いていたのは、ウクライナのチェルノヴィッツ大学に教授として赴任していた時だった(1909年~11年の2年間)。この歴史上のエピソードについては、『実はウクライナで生まれた、「シュンペーターのイノベーション理論」』で書いたので読んでみてほしい。
チェルノヴィッツとはオーストリア帝国がウクライナを支配していた時代のドイツ語表記であり、第1次大戦後はウクライナ語でチェルニウツィー大学という。チェルニウツィーはウクライナ西部、キーウの南西400km、南のルーマニア国境まで30kmほどの距離にある。
シュンペーターは28歳で『経済発展の理論』を書き上げると、原稿をライプツィヒにある出版社ドゥンカー&フンブロートへ送った。この年の夏休みに自宅のあったウィーンへ戻ると、ウィーン大学の経済学教授オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクからオーストリア帝国西部のグラーツ大学教授への転任が推挙され、1911年秋冬学期に赴任することになった。
ところが、グラーツ大学教授会はシュンペーターの教授就任に関して紛糾し、シュンペーターの着任は遅れに遅れた。教授会で議論が続いていた7月は、『経済発展の理論』の序文を書き上げ、本文の校正を続けていた時期だ。ようやく教授会が認め、グラーツ大学へ着任したのは12月で、『経済発展の理論』が出版されたのは1912年に入ってからだった。
なぜシュンペーターのグラーツ大学教授就任が、教授会で紛糾したのか。シュンペーターの伝記ライターで知られる元ミズーリ大学教授ロバート・アレンは、「教授会はアンファン・テリブル(恐るべき早熟の子ども)を嫌った」(注2)と書いている。要するに、嫉妬だろうと。28歳の天才が嫌われたのというのだ。
しかし、どうもそれだけではなさそうだということは、後述しよう。
鷗外がシュンペーターの名前を「発見」したのはこの1912年(日本は大正元年)。少壮の経済学者として着目した…というわけではなく、どうやら、オーストリアのゴシップ記事を読んだようだ。このエピソードは、1928年~29年の秋冬学期にドイツのボン大学へ留学した東畑精一(1899~1983)が記していた(この時期のシュンペーターはボン大学教授だった)。
「チェルノウィッツ大学の教授になった時に余りに鋭くて近よれなかったためであろう、学生のストライキに遭ったという話が、鷗外の『椋鳥(むくどり)通信』に出ていると小泉信三さんに聞いたことがある」(東畑精一、注3)。
筆者はこの東畑の文章を読んだ後、鷗外の「椋鳥通信」が収録されている『鷗外全集』第二七巻(岩波書店、1974)の索引を探したが、Schumpeterの文字はなく、どこに載っているかわからない。しらみつぶしに読み、750ページに記載されていた記事を「発見」した。
鷗外はこう記している。
シュンペーターのグラーツ大学教授就任が紛糾した「真相」と、鴎外が記した内容とは、何だったのでしょうか?