現在、熊本城内は各所で復旧工事が行われ、ところによっては、石垣が崩れたままになっている。このため仮設の特別見学通路が空中歩廊として設置され、重機や車両が通行する上部で安全に見学できる。その通路上から本丸の「二様の石垣」もながめられる。

 右側手前に見える、清正の時代に築かれた石垣は、傾斜が50度程度と非常にゆるやかで、算木積も完成されていない。一方、細川時代に積み足された左側奥の石垣は、傾斜が急で63度になる。隅角部に算木積が採用され、重力を逃がすことができているから、すそを広げる必要がなかったのだ。

 また、天守台の石垣もわかりやすい。関ヶ原合戦の前に完成した大天守台は、清正時代の特徴がはっきりと見てとれるのに対し、忠広の代に築き足された小天守台は、算木積が完成していて、勾配は急角度になっている。

 私が熊本城を見ていちばん驚くのは、短期間に大きく進化した石垣築造技術についてである。城郭全体を石垣で取り囲んだ総石垣の城は、織田信長が天正4年(1576)から築いた安土城にはじまる。しかし安土城の石垣も、豊臣秀吉が天正11年(1583)から築いた大坂城の石垣も、基本的に野面積で築かれ、高石垣を築く技術も未熟だった。

 それから十数年、あるいは二十数年という短期間で、清正はどのようにして石垣を築く技術をここまで進化させたのだろうか。

熊本城の堅固さの
背景に朝鮮出兵

二様の石垣。手前が加藤清正時代、奥が細川時代のもの本書より。二様の石垣。手前が加藤清正時代、奥が細川時代のもの

 清正は幼いころから秀吉に仕えながら、石垣を構築する技術の発展を体得してきたようだ。秀吉による、石垣をもちいた長浜城や姫路城の築城を目の当たりにし、秀吉が天下人になってからは、大坂城や肥前名護屋城などの普請にかかわった。

 清正にとって決定的だったのは文禄元年(1592)にはじまった文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵だった。とりわけ慶長2年(1597)に朝鮮へ再侵攻した際は、明軍が日本軍の北上を阻止したので、日本軍は朝鮮半島南岸一帯に築いたいわゆる倭城、つまり日本式の城郭に籠った。

 清正は西生浦倭(せいせいほわ)城や蔚山(ウルサン)城を築いたが、とくに蔚山城の築城は、従軍僧の慶念(きょうねん)が記した『朝鮮日々記』によれば、日本から連れてこられた農民らが一日じゅう、木々の伐採や城の普請に駆り立てられ、怠ければ見張りの侍に首を切られるという、過酷な状況だったという。さらには、この蔚山城は兵糧も兵士も十分でないまま明と朝鮮の軍に包囲され、救援軍がかけつけて助かったものの、清正をはじめ日本軍は恐怖のどん底に落とされたという。

 敵地で短期間に築城する必要があったため、倭城では石垣も一定程度加工し、規格化して積む必要が生じたようだ。また、そのように余裕がない状況で文字どおりの命綱を築くのだから、持てる技術を最大限に、しかも効率的に活かすほかない。そうした究極の状況での鍛錬が大きな発展や革新につながることはいうまでもない。

 加えて清正にとっては、蔚山城で飢えに苦しみながら籠城戦を戦った経験は、もう同じ体験はしたくない、だれに攻められようと陥落しない難攻不落の城を築くしかない、という強い意志につながったようだ。

 信長が安土城に総石垣を導入した背景には、ヨーロッパの影響が少なからずあるに違いない。宣教師たちの話を聞くのが好きだった信長は、ヨーロッパにはどんな城が築かれているのかと尋ね、石で築かれているという回答を得ていたことだろう。インドやヨーロッパの王に、自分の統治がどう評価され、自分の城がどのように映るか、非常に気にしていた信長のことである。石をもちいることでヨーロッパに負けないものを、と考えたことは想像に難くない。

 そうしてはじまった石垣の城の歴史を、普請に携わりながら生きてきた清正。さらには補給路も逃げ場もない異国の地で、生きるか死ぬかの状況に置かれながら、少しでも堅固な城を築こうと努め、そうして築いた城で、過烈な防衛戦を体験した。

 熊本城の石垣は美しい。日本一美しいといっても、だれも過言だと感じないだろう。それは日本の城ならではの美しさではあるけれど、海の向こうにおける過酷な体験をも背景にした、究極的な防衛本能に支えられた美しさである。