【どうする家康】有村架純演じる瀬名姫は、いかに「天皇陛下の先祖」となったか浜松城公園の徳川家康像 Photo:PIXTA

松平親氏の子孫の家康が
徳川家康を名乗った理由

「どうする家康」は、3月12日の第10回で次女督姫の母となる初めての側室を取ることにしたこと、昨日の第11回で「徳川への改姓」と「信玄との出会い」、それに加え、2回とも「三河平定」に続く「遠江攻略」が主たるテーマだった。

「松平から徳川に名字を変えたのは、家康が政治的思惑で架空の先祖の物語をでっち上げた」と戦後の歴史学者は決めつけていたが、祖父の松平清康が「世良田」という上野国新田郡(群馬県)の地名に由来の名字を使っていたことが発見されて、少なくとも家康の思いつきでないことは確定した。その時点で証拠がないということをもって、伝承を「でっち上げ」と決めつける歴史学者が陥りがちな失敗の有名な例になっている。

 いつから言い出した話かは不明だが、私は三河に流れてきて松平郷の豪族の入り婿になったという松平親氏が、「上野の新田一族だが戦いに敗れて流浪の身となった」とでもいってた公算が大きいと思う。あとではなかなか言い出しにくい。

 ただし、その話が本当かどうかは、まったく不明であるし、詳細な系図もなかった。そこで、家康は京都の吉田神社の神職などに金を払って、途中の世代を埋めて、もっともらしい系図に仕上げてもらった。

 世良田と得川は同族らしいが、家康は本家筋の得川の方を取り、それを好字を選んで徳川とした(世良田東照宮のHPなど参照)。また、上皇后陛下の実家である正田氏の先祖が、家康の先祖が上野を離れるときに、所領を預かったという話もある。

 どちらにせよ、三河の土豪は吉良氏を筆頭に本物の足利一族だらけだから(鎌倉時代に足利氏は三河守護だった時期が長かったので庶子などが土着した)、松平は足利家に連なるとは主張しにくく、新田一族を名乗って同格ということにしたかったのだろう。

 そして、この新田一族ということは、水戸光圀が南朝を正統だと言い出すことにもつながってくる。