2016年の熊本地震で被害を受けた熊本城。その復旧は2052年度までかかると言われる。そんな熊本城の日本一美しいと言われる石垣の秘密について、香原斗志著『教養としての日本の城 どのように進化し、消えていったか』(平凡社新書)の一部を抜粋・編集してお伝えする。
石垣の城だから
広がった被害
熊本城を訪れると心が痛む。いまなお各所で石垣が崩落したままで、石の山のなかに崩れ落ちた塀の残骸が姿をのぞかせていたりもする。一刻も早い復旧を願うが、被害があまりにも広範囲におよぶため、復旧工事が完了する予定は2052年度だという。先が長い。
平成28年(2016)4月14日と16日、熊本は最大震度7の巨大地震に2度にわたって襲われた。その結果、熊本城では石垣が50カ所で崩落。地盤沈下や地割れも70カ所で発生し、国の重要文化財に指定されていた13棟の現存建造物は、すべてが被害を受けた。たとえば宇土櫓(うとやぐら)の続櫓(つづきやぐら)は完全に倒壊し、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)は20メートルの高石垣とともに崩落してしまった。
昭和と平成に復元された建築も、大半が大きな被害を受けた。昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで外観復元された大小の天守は、天守台の石垣があちこちで崩れ、大半の瓦が落ち、柱の基部が大きく損傷するなどした。
それに熊本城では、平成9年(1997)に「復元整備計画」が策定されて以来、30年から50年をかけて江戸時代の雄姿にできるだけ近づける、という取り組みの真っただなかだった。そして震災の2年前までに、西出丸(にしでまる)一帯の櫓や門ならびに塀、飯田丸五階櫓、本丸御殿などが木造で復元されていたが、そのすべてが被災した。たとえば飯田丸五階櫓は、「奇跡の一本石垣」に支えられてかろうじて倒壊をまぬかれた、あの建物である。
熊本城が築かれている標高50メートルほどの茶臼山(ちゃうすやま)は、約9万年前に阿蘇山が噴火した際の火砕流が堆積した層が基盤になっている。それが凝固して岩盤になっていればいいのだが、茶臼山一体では十分に溶結しておらず、軽石をふくんだ火山灰が40メートルほど堆積した状態なのだという。そのうえに築かれた石垣だから、崩落しやすかった面があるのかもしれない。
しかし、見方を変えれば、こうもいえるだろう。熊本城は全国の城でほかに類を見ないレベルで、何重もの累々たる石垣に囲まれている。こんなに過剰なまでに石垣が築かれていなければ、先の地震でこうも甚大な被害を受けなくても済んだのではないか、と。
ただし、もともとの石垣はかなり頑丈だったこともわかっている。地震によって石垣が被害を受けた箇所を確認した結果、築城当初のままの石垣はほとんどが、大きな被害を受けていなかった。崩壊した石垣の大半は、少なくとも1度は修理された箇所で、また、当初からの石垣と修理された石垣の境目付近での被害が多かったという。