街道と琵琶湖を掌握して都へ迫る浅井・朝倉連合。なぜ信長・秀吉・家康はこの強固な連合を打ち破ることができたのか。国内外の城に精通し、テレビ・ラジオや講演で大人気の城郭考古学者・千田嘉博教授(奈良大学文学部)の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から、一部抜粋し、城郭考古学からわかる籠城・攻城のポイント、秀吉の猛攻、信長の執念に迫る。(城郭考古学者 千田嘉博)
【小谷城・虎御前山城】
浅井・朝倉連合、なぜ崩れたか
滋賀県長浜市にある小谷城は、湖北を拠点にした戦国大名浅井氏の城であった。小谷城に登れば西には琵琶湖に浮かぶ竹生島、はるか南東には伊吹山を望む雄大な景色が広がる。浅井氏時代は当時の北国街道を小谷城麓の城下に引き込んで、街道による物流を直接把握した。
また、琵琶湖の水運は、日本海海運によって結ばれた列島規模の交易ネットワークとつながって、日本屈指の物流の動脈だった。船で福井県の敦賀に集まった物資は、陸路を経て琵琶湖北端の港の塩津港に到達し、琵琶湖水運によって京都へ運ばれた。浅井氏は小谷城だけでなく、琵琶湖に接した長浜市の山本山城や、内湖によって琵琶湖に直結していた滋賀県彦根市の佐和山城などによって、琵琶湖水運を掌握しようとした。
つまり、浅井氏の力は田畑だけでなく琵琶湖の水運にあった。しかし、そうした琵琶湖の水運をめぐる権益は、古代以来の比叡山や、峠の向こうの越前を治めた戦国大名朝倉氏との連携やバランスによって成り立っていた。特に越前の朝倉氏と近江の浅井氏は、流通における川上・川下の関係にあった。
そうした浅井氏を織田信長は味方にするため、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせた。岐阜城を拠点にした信長は、岐阜・京都間の交通路を確保する必要があったからである。ところが、1570(元亀元)年に信長が朝倉義景を電撃的に攻撃し、長政が信長と断交したため、浅井氏と織田氏の同盟は崩壊した。浅井長政は長年の信頼関係で結ばれた義景を助けて信長と戦う選択をした。浅井と朝倉両氏が強固な信頼関係にあったことは小谷城からもよくわかる。