ソクラテスの像写真はイメージです Photo:PIXTA

哲学は抽象的で役に立たないと思ったら大間違い。日常生活に深く根ざした問題について、従来の考え方を疑い、視点を変え、再構成し、言語化することが哲学のアプローチだ。古今東西の哲学者たちの思索を、たどってみよう。本稿は、小川仁志『世界が面白くなる! 身の回りの哲学』(あさ出版)の一部を抜粋・編集したものです。

誰しも避けられない死を
哲学者はどう論じてきたか

 人間を苦しめる最大の問題。それは死です。誰にも平等に訪れる不幸と言ってもいいでしょう。だから哲学者たちも、昔から死について真剣に考えてきました。

 中でも有名なのは、死の哲学者と称されたドイツの哲学者マルティン・ハイデガーではないでしょうか。彼は、必ずしも死を否定的に捉えたわけではありません。むしろ、「人間が必ず死ぬ運命にあることを捉え、ならば懸命に生きるべきだ」と説いたのです。

 私たちは、また明日があるというふうに日頃だらだらと時間を過ごしてしまいがちです。しかし、その明日には限度があるのです。いつかはこの生は終わってしまいます。そのことを意識して初めて、人は本来の生を送ることができるというわけです。そうした覚悟のことを先駆的覚悟性と呼びました。

 自分の死をあらかじめ先取りして、覚悟して生きるということだと思ってもらえば良いでしょう。どうせ死ぬなら、私たちにとって死がもたらす意味とは、いかに生きるかということしかないのです。そう思えれば、少しは死への恐怖が和らぐのではないでしょうか。

 死という現象はそもそもどういうことなのか。もちろんこの世には死を経験した人は1人もいないはずですから、本当のことなど分かりません。でも、死をどのように捉えることができるかという議論はできるはずです。

 一番参考になるのは、仏教の開祖であるブッダの教えであるように思います。ブッダがどのように説いたかは諸説あるわけですが、ここでは手塚治虫の描いた『ブッダ』を取り上げ、そこで論じられた死の意味について考察します。その意味では、手塚治虫の死生観と言っていいかもしれません。

 手塚治虫はストーリー漫画を生み出し、漫画を大人でも楽しめる芸術にまで昇華しました。『火の鳥』や『ブッダ』など、もはや思想とも言うべき深い内容を漫画という表現形式で描いています。

 手塚治虫の描く『ブッダ』の中で、若きブッダは不思議な夢を見ます。宇宙という大きな生命のもとから、無数の生命のかけらが生まれていく夢です。これがきっかけでブッダは、のちに生と死がこの宇宙の法則のもとにあることを知るに至り、人が死ぬと自然の精気の中に入っていくのだと説きます。