自然の精気は、細かい目に見えないような粒に分かれて、大気の中へと散り、みんな混じり合うと手塚治虫は言うのです。そうしてまた、生命のかけらとなって新たな生を送ることになるのでしょう。
つまり、死ねばそれで終わりということではないのです。死とは肉体という殻から生命が飛び出していくことにすぎない。ほんの一瞬この殻を通り抜けるだけ。それが死だと言うのです。
自分の死も他者の死も、人はどうすることもできません。できるのは、哲学者たちがしてきたように、死について考えることだけです。そのためには、日々死と向き合うしかありません。それが宿命なのです。人は死に向かう存在ではなく、死と共に生きる存在なのかもしれません。
労働を深掘りすると見えてくる
人間が生きる理由
何のために働くのか?
誰もが一度は抱く疑問だと思います。もちろん生きていくためなのでしょう。しかし、そうでなくても働く人はいます。それに、仮に生きていくためだとしても、無理をしたり、必要のないことまでしてしまったりするのは、なぜでしょうか?
それは、生きていくため以上の何かが目的としてあるからに違いありません。おそらく、人から認められたいからではないでしょうか?
近代ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲルは、「人は誇りのために働く存在である」と説きました。彼は人間にとって市民社会こそが社会、つまり生きる場であると考えていたのですが、そこは働くための場でもあったのです。
人々が自分の役割を果たすことによって、互いに支え合っている状態、それこそが市民社会の本質だったのです。その本質をヘーゲルは、誠実さと表現しています。
市場で誠実に取り引きをする、誠実に働くことによって、私たちはひとかどの人物になるというわけです。ひとかどの人物とは、周囲から認められる存在ということです。言い換えると、周囲からの承認が誇りとなって、生きる勇気を与えてくれるのです。だから「働くのは、誇りを得るためだ」と言っても過言ではありません。
ただ、社会において周囲から認められることを第一義としない人もいます。