悪口が悪いのは「人を傷つけるから」ではない!哲学が授ける超納得の回答写真はイメージです Photo:PIXTA

「哲学」に対して、高尚なイメージを抱いている人も多いかもしれない。しかし実際には、人が生きていくなかで抱える疑問を解く鍵が隠された学問でもある。たとえば、近年SNSなどで問題になっている誹謗中傷。悪口は言うべきではないという共通認識はあっても“どうして悪口は悪いのか?”という問いには答えにくいはず。そんな質問にも、哲学はひとつの答えをくれる。本稿は、稲岡大志/森功次/長門裕介/朱喜哲編『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(総合法令出版)内から、言語哲学、意味論を専門とする和泉悠氏の「悪口はどうして悪いのか?」の一部を抜粋・編集したものです。

「人を傷つける言葉=悪口」
ではない

 私たちの中に、悪口を言われたことがない、言ったことがない人はほとんどいないでしょう。学校や職場で知り合いを揶揄するくらいのことは、誰しもがやってしまいます。また、単なる「悪口」の範囲を超えるような、インターネット上での誹謗中傷や、社会的マイノリティの人々を攻撃するヘイトスピーチなどが、大きな問題となってきました。

 そうした言葉の暴力はどうして悪いのでしょうか。ここでは日常的な悪口に焦点を当てて、どうしてそれが悪いと言えるのか検討します。悪口の悪さを説明する三つの考え方を、それぞれ、「危害説」「悪意説」「劣位化説」と呼ぶことにします。

 危害説によると、悪口が悪いのは、直接的な暴力が悪いのと同じ理由です。直接的な暴力は身体へのダメージなど、他者に危害を与えます。悪口によって、皮膚が裂けたり顔が腫れたりするわけではありませんが、場合によってはそれと同等以上の精神的なダメージを受けることがあります。子どもに悪口を注意する際も、「そんなこと言われたら傷つくでしょ、嫌でしょ」と言って、精神的な危害があることを指摘します。

 危害説はいわば常識的発想ですが、悪口を説明する立場として不十分です。第一に、悪口以外にも、人を傷つける言葉、精神的なダメージを与えてしまう発言がたくさんあります。「残念ながら不採用です」「私たち別れよう」のように、自分の期待や希望にそぐわないことを言われてしまうことは、誰にでもあります。そして、時には立ち直れないほどに深く傷ついてしまうことすらあるでしょう。しかし、こうした発言はもちろん悪口ではまったくありません。ですので、言葉が危害を加えるからといって、悪口であるとは限りません。

 第二に、悪口が人を傷つけない可能性もあります。例えば、メンタルのすごく強い人がいて、何を言われてもまったく意に介さないとしたら、その人にひどいことを言っても悪口にはならないのでしょうか。あるいは、すごくいじめられ続けて、もう諦めきって、何を言われても何も感じなくなってしまった人がいたとしたら、その人にとてもひどいことを言っても悪口にはならないのでしょうか。そんなことはないでしょう。たとえ、そこでたまたま傷ついていなかったとしても、痛みも何も感じなかったとしても、悪口は悪口だと私たちは考えます。ですので、言葉が危害を加えないからといって、悪口でないとも限りません。