戦国時代は、大名同士で息子と娘を娶(めあわ)せる政略結婚が多くあった。婚姻を結んで縁戚となるのは軍事同盟の一つの手段であり、娘を嫁がせることは実質的に「人質」を差し出すことを意味していた。徳川家康も戦国の世にならい、数多くの政略結婚を利用した。だが家康の手法は、かつて仕えた豊臣秀吉が定めた「大名同士の勝手な婚姻を禁ずる」との掟を無視した点に特徴がある。これが天下分け目の一戦といわれる関ヶ原の戦いを誘発したのだが、一体どういうことか。家康の「掟破りの婚姻戦略」をひもといていこう。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
契約を神仏に誓う「起請文」だが
家康には何の効果もなく…
1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉が死んだ。
秀吉は生前、豊臣政権を支えてきた有力大名に対して、守るべき置目(おきめ/規定や掟など)を指示していた。
1595(文禄4)年7月と8月には、念を押すかのように、 2回連続で厳命している。7月は徳川家康・毛利輝元・小早川隆景に起請文(きしょうもん/文面の事柄を神仏に誓う契約書)を提出させた。
内容は、秀吉の子・豊臣秀頼に忠誠を誓う、諸事につき秀吉の定めた置目を守る、背いた者は誰であっても調べて処罰するという内容が中心だった。
続いて8月は、前述の3人と上杉景勝・宇喜多秀家を加えた5人に伝えられ、5人は書面に連署で署名した。
ここには、諸大名の婚姻は秀吉の許可を得たうえで決定する、諸大名が誓紙を交わすことを禁じる――の2点が記されていた。7月の起請文にあった置目をより具体的に示したもので、それが大名同士の勝手な婚姻を禁止することだったと分かる。
上記の5人がのちに「五大老」と呼ばれる者たちの原型だが、1597(慶長2)年に小早川が死ぬと、秀吉は代わりに前田利家を指名した。
一方では1598年、死の直前に遺言で、「五大老同士」が婚姻を結ぶのは例外として認めてもいる。五大老が縁組を通じて結束すれば、政権の強化につながると考えたからだろう。秀頼に家康の孫娘が輿(こし)入れし、豊臣と徳川が縁を結ぶのも切に望んだ。
だが、「五大老の誰かと他の大名との縁組」は、頑として認めなかった。誰かが諸大名と縁戚になれば、その者の勢力は強くなる。他の者も対抗せざるを得なくなり、政権内に派閥が構成され、権力基盤が揺らぐ。
大名たちが婚姻を通じて結びつくのを、秀吉は最後まで警戒していた。
にもかかわらず、後に平然と掟を破る者が出た。家康である。家康はなぜ「五大老以外の大名との縁組」を断行したのか。次ページ以降で解説する。