「どうする家康」で描かれる
平和主義者の家康といううそ
NHK大河ドラマでは極端な中国や韓国への外交的配慮が不文律だ。特に、文禄・慶長の役については、寸分の前向きの評価も許されない。だから、地元からの強い要望もあるのに、加藤清正をはじめ島津四兄弟、小早川隆景、立花宗茂、宇喜多秀家などは絶対に主人公にしない。
秀吉を主人公にするときも、天下統一までの秀吉は魅力的だったが、もうろくして大陸出兵という愚劣な行為をしたと描くのがお決まりだ。
しかし、鎖国して世界文明の進歩の恩恵から日本を遮断した徳川幕府のようなやり方が正しいはずもないし、東アジアの国際秩序を日本にとって有利なものにする戦いは、当時において間違いではない。
さらに、「どうする家康」では類いまれな平和主義者として描かれる徳川家康が、周辺諸国との対等で平和な関係を望んだというのもうそである。朝鮮通信使は、曖昧さは残しているが、幕府への朝貢使節だし、琉球は武力で屈服させて、秀吉が朝鮮に望んだのとよく似た形で服従させた。明国には通商を求めたが腰砕けになっただけだ。
秀吉の死によりいったん撤兵したのち、家康は第三次出兵をちらつかせながら交渉をしたし、関ヶ原の戦いの発端も「第三次出兵の相談があるので上洛せよ」と上杉景勝に言って拒絶されたことだ。
そして、関ヶ原の戦いとそれに続く混乱のなかで、徳川幕府は外交問題への取り組みを後回しにしたので、朝鮮遠征は良い結果が残らなかった。
いずれにせよ、南蛮人が東アジアに進出して交易の中心になった情勢のなかで、東アジア通商秩序の再編成が必要だった。ところが、家康が自分の天下取りを優先したことで、手が回らずチャンスを逸した。そして、海洋にあまり関心のない満洲族が中国を支配し、家康の子孫が鎖国したことで、日清両国の「海洋への関心の空白」ができたところで、ロシアの拡大や欧米諸国による植民地支配を導き出してしまった。
一方、戦前の歴史家たちが妄想したように、秀吉が明国からの「日本国王にする」という国書を破り捨てるなど、毅然たる愛国心を示して日本の国威を発揚したというのも事実でない。そんな単純な話でない。
ここでは、世界史的観点から客観的にこの事件を位置付ける見方を、二度に分けて解説したいと思う。
*本記事の内容は『日本人のための日中韓興亡史』(さくら舎)、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)による