どうする家康で描かれた
家康の窮地と天正大地震
家康は軍事的に窮地に立っていたのに、えらく有利な条件で秀吉に臣従した。秀吉がそれを許した理由として、最近は天正大地震で戦争どころでなくなったというのが流行で、大河ドラマも採用している。
だが、私は島津氏による九州制覇が近づき、東国どころではなくなったためと思う。ただ、それを南蛮人による植民地化を心配してのことだというのは、正しくない。そんな危険はそもそもなかったのだ。
「どうする家康」では、次のように描いていた。小牧・長久手の戦いで織田信雄と家康の陣営は秀吉に局地戦で勝利したものの、信雄が勝手に秀吉と和解したので、家康は困った。次男の於義丸を秀吉の養子として出したものの、家康は上洛をちゅうちょしていた。
秀吉は紀伊、四国、本願寺を傘下に入れ、越後の上杉と組み家康を討ち滅ぼす準備が整った。家康は死んだ瀬名姫が夢見ていた平和な世を実現しようと、天下取りを諦めていなかったが、秀吉の下でその理想が実現してもいいのではと考えた石川数正に出奔され、万事休すかとみられた。だが、1586年の1月に天正大地震が起きて、濃尾地方が大被害を受け、双方とも戦いどころでなくなった。
そこで、秀吉は、妹の旭姫を家康の正室として送り込み、さらに、見舞いと称して母のなか(大政所)まで岡崎に送り出して、家康の上洛を促した。旭姫を正室として差し出したのは、義兄弟として特別な地位を与えるということだ。ドラマで意外なキーパーソンになったのが旭姫で、平和のために夫と別れて家康の妻となり、尾張弁でひょうきんに家臣たちや家康の母とか側室と打ち解けて、流れを変えたということになっていた。旭姫を演じる山田真歩が好評だった。