【どうする家康】秀吉に「関東左遷」された家康が大喜びした理由とは?江戸城(現在の皇居)の桜田門 Photo:PIXTA

信長と北条は
平氏同士で友好関係だった

「どうする家康」は、先週、家康が大坂城へ赴いて秀吉に臣従したことが描かれ、昨日は秀忠(二代将軍)と忠吉(関ヶ原の戦いのあと尾張清洲城主)の母で、天下統一(1590年)の前年に亡くなった於愛の方や真田家に嫁ぐ本多忠勝の娘がテーマだった。

 次回は小田原の役と徳川の関東移封がテーマになるだろう。そこで、今回は「北条氏における失敗の本質」「関東移封を家康が大喜びしたわけ」「なぜ家康は江戸を居城にしたか」を解き明かしてみたい。

 室町幕府は、関東は足利一族の鎌倉(関東)公方に統治させ、そのお目付役として、上杉氏(足利尊氏の母の実家)を関東管領とした。しかし、家康の先祖・松平親氏が関東を出奔するきっかけになったともいう1416年の「上杉禅秀の乱」から両者の対立が続き、幕府は新しい関東公方を送り込んだが、新旧の公方ともに鎌倉には定住できず、伊豆の堀越公方と下総の古河公方が並立した。

 この混乱に乗じて伊豆から相模に勢力を伸ばしたのが、足利将軍側近で今川家の食客(義元の祖母の兄弟)の北条早雲(生前は伊勢新九郎。北条は二代目の氏綱が改姓)だった。三代目の氏康は堀越公方を滅ぼし、上杉家を関東から追い出し、古河公方(鎌倉公方が移転)を名目上の主君にして南関東の支配者になった。

 だが、越後の上杉謙信(本来は長尾氏だが名跡を譲られる)が関東管領を名乗り、常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏と組んで、北条氏と戦った。織田信長と北条氏は、同じ平氏でもあり、上杉という共通の敵もあって関係良好で、四代目氏政の嫡男で五代目の氏直と、信長の娘を結婚させる予定だった。