「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。(中略)されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。──『学問のすすめ』より引用

 発刊から1世紀以上が経過していますが、過去に読んだ人々のかなりが「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を福澤諭吉の見解と理解しているようです。

 例によって、「だって書いてあるじゃないか」というわけです。しかし、これは対比相手です。

 これを福澤諭吉の意見ととって、「学問しようとしまいと平等だぜ、イエイ!」では、「学問のすすめ」が理解できません。

「一般論」と「筆者の考え」を区別する

 福澤諭吉自身、自説の説得化のためにあえて、冒頭に世間一般の考え方をふっているのです。

「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」の「言えり」は世間じゃ言われているねということです。「されども」で乗り越えるための前フリです。

 その後、賢い人もいれば、愚かな人もいるし、裕福な人もいれば、貧乏な人もいる現実が語られます。さらに、その雲泥の差が何によってもたらされるのかという核心部分にいたります。その理由は、学んだか学ばなかったかの違いだということを『実語教』にふれつつ語られます。

『実語教』は、庶民向けの道徳や教訓の書として用いられたものです。一説によれば起源は平安時代末期で、江戸時代の寺子屋で広く使われたようです。

 加えて、学問をして難しい仕事のできる人が身分の重い人で、学問しなくても簡単にできてしまう仕事をする人を身分の軽い人と対比させています。「身分」を血統や世襲的身分制度としていない点が近代的です。

「理解が早い人」の頭の使い方

 こうした、単純ですが深刻な誤解に陥らないために対比をおさえることがまず重要です。さらには、ことの本質的理解においても、話者・筆者が何と戦っているのか対比をふまえることが実はきわめて重要です。