人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者(@keiyou30)が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。(初出:2023年11月18日)

被害者6000人のテロに用いられた「神経毒」の恐怖…そして、命がけで治療にあたった人々の感動秘話【書籍オンライン編集部セレクション】Photo: Adobe Stock

地下鉄サリン事件

 一九九五年三月二十日、東京都内で未曾有の無差別テロ事件が起きた。化学兵器である毒ガス、サリンが地下鉄の車内に撒かれたのである。

 午前八時頃の通勤ラッシュ時に、丸ノ内線、日比谷線、千代田線の三路線、計五車両で同時多発的に散布された神経毒により、一三人の尊い命が失われ、負傷者は六〇〇〇人近くに上った(1)。

 事件を企てたのは、宗教団体オウム真理教であった。過去に類を見ない、大都市での化学兵器テロ事件は世界中を揺るがした。

 サリンは有機リン化合物の一種で、一九三八年にナチスドイツによって開発された化学兵器だ。「サリン(Sarin)」の名称は、当時開発に携わったナチスの化学者ら四人の名前から取られたものである。

 有機リン化合物は、炭素とリンの結合を持つ化合物の総称で、一般には殺虫剤や農薬として広く使用されている。

 実際、殺虫剤や農薬の誤飲、あるいは自傷・自殺目的での摂取によって中毒患者が病院に救急搬送されるケースは少なからずある。

 よって有機リン中毒は、救急医療の分野で重要な薬物中毒の一つである。

時間との戦い

 地下鉄サリン事件では、駅構内で数千人がパニックに陥る中、大勢の被害者が周辺の病院に搬送された。

 特に多くの患者を受け入れたのが、築地の聖路加国際病院だ。

 当時の日野原重明院長が、通常診療をすべて中止して患者を受け入れるよう指示したからである。結果的に、同病院は六四〇名という前代未聞の救急搬送を引き受けた(2)。

 聖路加国際病院では、大きな礼拝堂や廊下でも診療が行われた。ここにも酸素の配管設備などが整い、非常時には病室として機能するよう設計されていたからだ。

 日野原がこの設計にこだわったのには理由があった。

 一九四五年、東京大空襲で大勢の患者が病院に入れず治療を受けられないまま亡くなったのを、彼は医師として目撃していた。

 大災害に耐えうる病院をつくることは、そのとき彼が自らに課した使命だったのだ(2)。他にも数多くの医療機関が緊急体制で患者を受け入れ、医療スタッフたちは懸命の治療に当たった。