解毒剤を東京へ!
だが、治療は難航した。
有機リン中毒の解毒剤、PAM(プラリドキシムヨウ化メチル)の在庫が足りなかったのだ。
PAMは本来、農薬中毒の治療薬だ。大都市の中心部で農薬中毒が同時多発的に起こることなど想定しようがなかった。都内のPAMをかき集めても太刀打ちできる患者数ではない。
PAMは、中毒の発症早期に投与されなければ効果を発揮できない。
まさに時間との戦いだった。PAMを扱う薬品卸売業のスズケン社は、できる限り多くのPAMを東京にかき集める計画を立てた。
名古屋の本社から新幹線「こだま」に乗りこんだ社員が、浜松、静岡、新横浜駅のホームからリレーのようにPAMを受け取り、都内に届けたのである。これにより計二三〇人分のPAMが都内の病院に届けられた。
命を救った懸命の協力
また当時、有機リン系農薬を製造する住友化学のグループ企業であった住友製薬(現・住友ファーマ)は、国内で唯一PAMを製造、販売していた。
住友製薬はこの危機に際し、大阪の商品センターから東京へありったけのPAMを緊急空輸した。
その結果、事件当日の夕に二〇〇〇人分、夜には二五〇〇人分のPAMが医療機関に次々と配送された(3)。
他にも、事件現場で救助・救命活動に当たった救急隊員たち、除染活動に当たった自衛隊員、各医療機関で対化学兵器治療マニュアルに基づいて助言を行った自衛隊の医官や看護官、全日空をはじめPAMの緊急輸送に全面協力したスタッフたち。
あらゆる人々の協力が、被害の拡大を食い止めたのである。
サリンの化学構造
有機リン化合物の一つ、サリンが人体に猛毒として作用するのは、それが人体で働く神経伝達物質「アセチルコリン」を分解する酵素、「アセチルコリンエステラーゼ」を阻害してしまうからである。
アセチルコリンエステラーゼの働きが阻害されると、アセチルコリンが分解されずに蓄積することになる。
これによって過剰な神経伝達が起き、全身に様々な症状を引き起こす。
神経伝達物質には、アドレナリンやセロトニン、ドーパミンなど多くの種類があり、それぞれ異なる機能を持つ。
アセチルコリンもその一つだ。アセチルコリンが働く場は、副交感神経や、筋肉を動かす神経である。
副交感神経とは「自律神経」というシステムの一つで、もう一方が交感神経である。「自律」という名が示す通り、状況に応じて自動的に体の機能を調節し、生命維持を担うしくみだ。
副交感神経は、ゆっくり食事をしたりリラックスしたりしているときに働く一方、交感神経は興奮状態にあるときに働く系であり、それぞれが正反対の作用を持つ。
瞳孔の大きさや血圧、心拍数の上下、血管の拡張・縮小など、全身の臓器にそれぞれが対照的な作用をもたらすのだ。神経伝達物質は、必要なときに生成され、情報伝達の仕事を終えれば速やかに分解されなければならない。
だが前述の通り、サリンはアセチルコリンエステラーゼに結合することで、その機能を阻害する。
分解されなくなったアセチルコリンは過剰に蓄積し、筋肉が痙攣するような持続的な収縮を起こす。
副交感神経が過剰に作用し、縮瞳(瞳孔が縮小する)、嘔吐、下痢、血圧低下などの多彩な症状が引き起こされる。重度の場合は呼吸停止に至り、人命を奪うのである。
このように、神経伝達の仕組みを知っていると、サリンの毒性も分かりやすく理解できるのだ。
【参考文献】
(1)公安調査庁「オウム真理教」
https://www.moj.go.jp/psia/aum-26nen.html
(2)『地下鉄サリン 救急医療チーム 最後の決断』(NHK「プロジェクトX」制作班編、NHK出版、二〇一一)
(3)『住友製薬20年史 1984‐2004』(住友製薬株式会社編、二〇〇五)
(本原稿は、山本健人著『すばらしい医学』を抜粋、編集したものです)
2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に18万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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