AI時代、最重要の教養の一つと言われる「哲学」。そんな哲学の教養が、一気に身につく本が上陸した。18か国で刊行予定の世界的ベストセラー『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』(スコット・ハーショヴィッツ著、御立英史訳)だ。イェール大学とオックスフォード大学で博士号を取得した哲学教授の著者が、小さな子どもたちと対話しながら「自分とは何か?」から「宇宙の終わり」まで、難題ばかりなのにするする読める言葉で一気に語るという前代未聞のアプローチで、東京大学准教授の斎藤幸平氏が「あらゆる人のための哲学入門」と評する。本稿では、同書より特別にその一節を公開したい。
相手を「調教」するという発想
2006年、「ニューヨーク・タイムズ」はライターのエイミー・サザーランドのエッセイを掲載した。
動物調教師の養成学校について本を書いていた彼女は、調教師たちの仕事ぶりを見ているうちに、この方法で自分の夫も訓練できる、とひらめいた。
彼女の夫の名前はたまたま私と同じスコット。当時彼には困った習慣があった。服を床に脱ぎ捨て、家や車の鍵を何度もなくした。さらに悪いことに、彼にはその自覚がなかった。(中略)
記事のタイトルは「シャチが幸せな結婚生活について教えてくれたこと」。
そのなかでサザーランドは、取材を始める前は、夫のだらしなさについて口うるさく言っていたと書いている。しかし、それは効果がなかった。それどころか、事態を悪化させた。そんな彼女に、動物調教師がいい方法を教えてくれたのだった。
「調教師から学んだいちばんの教訓は、夫が私にとって望ましい行動をしたら報酬を与え、望ましくない行動は無視するということでした」とサザーランドは語っている。「要するに、アシカにどんなに口うるさく言っても、鼻先にボールを乗せる芸をさせることはできないのです」
フロリダ州のシーワールドでは、彼女はイルカの調教師から「最小強化シナリオ」について学んだ。イルカが間違ったことをしたら完全に無視するという方法だ。イルカのほうを見もしない。だれも反応してくれない行動はそのうち消えていく傾向があるからだ。
「逐次接近法」と呼ばれるテクニックについても学んだ。どんなに些細な進歩でも、最終的にめざす行動に近づくものであれば褒美を与える。その次の小さな一歩にも、さらにその次の小さな一歩にも、褒美を与える。アシカがボールを鼻の上に乗せる曲芸をマスターするまでそれを続けるのだ。
「報酬」と「無視」でコントロールする
サザーランドは仕入れてきたテクニックを自宅で使った。
夫が洗濯物をカゴに入れたら「ありがとう」と言い、入れなかった洗濯物は無視した。すると期待どおり、夫が脱ぎ捨てる服の山は小さくなっていった。やがて彼女のアシカは鼻の上でボールを操れるようになっていった。
あるとき、私は妻のジュリーが同じ実験をしている気配を感じた。私が服を脱ぎ捨てても文句を言わなくなった。私が服を拾い上げてカゴに入れると、大げさなほど喜んでくれた。キッチンでも同じで、食べ終わった皿をシンクに積み上げず食洗機に入れたら、それだけでありがとうと言ってくれた。私は探りを入れるために、ちょっとした善行をして様子を観察したが、案の定、そのつどポジティブな反応が返ってきた。
「もしかして、ぼくをイルカ扱いしてる?」と私はジュリーにたずねた。
「バレた? あの記事、読んだの?」
「みんな読んでるよ」
実際その記事は、これまでの「ニューヨーク・タイムズ」の記事のなかでも、いちばん多く読者のコメントが付いたらしい。
「確かに効果はあるみたいね」とジュリーは応じたが、そのとき彼女の表情から急に笑みが消えた。自分も同じことをされているのかもしれないと気づいたのだ。「もしかして、あなたも私をイルカ扱いしてる?」
私はそれには答えなかった。いまもノーコメントを通している。
私たちは記事を読んだことを互いに隠していた事実を二人で笑いあった。そして停戦交渉を行い、互いに相手をイルカ扱いしないという協定を結んだが、ジュリーはまだ私をイルカのように扱っている。だが、すでに対処のコツをつかんでいる私は、それを無視している。彼女がやめてくれたら、もちろんご褒美を与えるつもりだ。
人を「モノ」として見る態度
──「操作の対象」として見る
こんな夫婦のあり方に問題はないだろうか? 夫は自分に都合のいい行動を妻にさせるために妻に感謝し、褒めそやす。妻も夫に同じことをする。私は、夫婦の関係としてどうかと思う。夫婦間にかぎらず、こんな人間関係には問題がある。
それはなぜか?
その理由がわかれば、罰について、これまで気づいていなかった考え方が見えてくる。
ピーター・ストローソンは、オックスフォード大学の形而上学教授だった。彼は20世紀の哲学においてもっとも影響力のある論文の一つを書いた。その論文のタイトルは「自由と怒り」である。そのなかでストローソンは、人間を見る二つの見方を説明している。
一つは、人間を原因と結果の法則に支配される客体、つまり操作やコントロールができるモノとするような見方だ。家電製品のように人を見る人間観だ。
快適な室温にするためにサーモスタットの目盛を動かす。食べ物を焦がすことなく温めるために、電子レンジの設定を変える。暖房器具のフィルターを交換して熱効率を高める。どれもインプットを調整してアウトプットに影響を与えようとするもので、まさにサザーランドが夫に対して行ったことだ。
ストローソンは、人をモノとして見るということは、人を「管理され、操作され、矯正され、訓練されるべき存在」として見ることだと述べている。
サザーランドは、夫をそのように見ることをためらわなかった。彼女は夫に対して行った実験について、「彼をつついて少しでも完璧な夫に近づけたかった」とか、「私を困らせない伴侶にしたかった」と説明した。彼女の言葉に注目してほしい。夫をつついて新しい方向に誘導し、夫をよりよい存在にしようとした。彼女の夫は、あらゆる意味で、彼女の計画の対象であり、新たにマスターしたテクニックで操るモノだったのである。
ストローソンは、サザーランドが夫に対して取ったこのような態度を「客体への態度」と呼んだ(夫を操作の対象と見ているからだ)。
人を「人」として見る態度
──「期待」を抱いて接する
もう一つの見方としてストローソンは、それと対比させるかたちで、通常の人間関係のなかで私たちが取る態度を「反応的態度」と呼んだ。怒り、恨み、感謝などがそれに該当する。
私たちは他者との関係において──配偶者として、同僚として、友人として、あるいは同じ人間として──相手はこのように振る舞うべきだという期待を持っている。
基本的に、私たちは相手が善意を持って接してくれることを期待している。それ以上の何かを示してくれれば言うことはない。だが相手が期待以下のことしかしてくれなかったら──まして、ひどい扱いをされたら──怒りや恨みを覚える。
ストローソンは、このような態度を反応的態度と呼び、私たちがお互いをモノ扱いせず人間として接するために必要な重要な態度だと述べている。(中略)
サザーランドが夫にしたことはその逆で、人間をモノとして扱ったということだ。実際問題、人間もモノであることに違いなく、操作やコントロールが可能なのだから、モノを人間扱いするよりは理にかなった方法と言える。
しかし、人間はたんなるモノではない。人間は自分のすることに責任を負っている。少なくとも、負うことが可能だ。だから、怒りのような反応的態度は、私たちが互いに対して責任ある存在であるための方法の一つなのである。(中略)
パートナーを動物扱いしてはならない理由
そろそろ、サザーランドのテクニックのどこが気になるのかが見えてきた。
夫を訓練しようとした彼女は、夫を人としてではなく、操作やコントロールの対象であるモノとして見ていた。
彼女は夫の理性に働きかけるのではなく、外からの条件付けで夫の行動を変えようとした。少なくとも、夫をしつけようとした領域ではそのように扱った。
もちろんサザーランドも、別の領域では別の方法で、間違いなく人として夫と向きあっていただろうから、必要以上に責めるつもりはない。それに私は、愛している相手であっても、ときには「客体への態度」を取るべきだとさえ考えている。
だがそれでも、夫に対しては、あるいは妻に対しては、イルカの調教のようなことをするのはやめたほうがよい。それはここではっきり言っておきたい。
(本稿は、スコット・ハーショヴィッツ著『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』からの抜粋です)