京セラ創業、KDDI躍進、JAL再建――稀代の名経営者、稲盛和夫は何を考えていたのか?
2つの世界的大企業、京セラとKDDIを創業し、JALを再生に導きますが、稲盛和夫の経営者人生は決して平坦なものではありませんでした。1970年代のオイルショックに始まり、1990年代のバブル崩壊、そして2000年代のリーマンショック。経営者として修羅場に置かれていたとき、稲盛和夫は何を考え、どう行動したのか。この度、1970年代から2010年代に至る膨大な講演から「稲盛経営論」の中核を成すエッセンスを抽出した『経営――稲盛和夫、原点を語る』が発売されます。刊行を記念して、本書の一部を特別に公開します。

「ずば抜けて仕事ができる人」のたった1つの特徴Photo: Adobe Stock

「ずば抜けて仕事ができる人は、何が違うのか?」稲盛和夫の答え

 京セラはたった二八人で、京都市中京区西ノ京原町というところにあった、宮木電機製作所という会社の倉庫を借りて創業しました。

 二八人の社員のうち、七人は私と一緒に前の会社を辞めてきた人や、他の会社から移ってきた人たちです。あとの二〇人は新卒で入社してもらった人たちです。

 私は毎日のように彼らを集めて、「今はこんな零細企業だけれども、まずは原町一の会社になろう。原町一になったら西ノ京一になろう。西ノ京一になったら中京区一になろう。中京区一になったら京都一になろう。京都一になったら日本一になろう。日本一になったら世界一になろう」と、まるでお囃子みたいに繰り返し説き続けました。

 しかし実際には、西ノ京地区で一番を目指すといっても、地区内には一生かかっても超えられないと思うくらい大きな会社がありました。京都機械工具という、自動車修理用のスパナなどの工具をつくっている会社でした。ましてや中京区一といえば、島津製作所がありました。

 島津製作所といえば、近年ノーベル賞受賞者を出したことで有名になりましたが、当時も私が大学時代に研究室で使っていた分析器などを製造していた、ハイテク企業でした。それだけに、そんな高度な技術を駆使する大会社を抜くなど、とても不可能なことだと、内心では思っていました。

すべては「考え方」で決まる

 しかし、それでも私は、社員に対して「世界一を目指す」と言い続けました。そして、そのような先発の大企業や一流企業に少しでも近づこうと思えば、並みの努力ではとても追いつけないと思い、私は目指すべき高い目標にふさわしい「考え方」を全社員で共有するように努めたのです。

 これはスポーツの世界でも同じことです。例えば、少し古い話で恐縮ですが大松博文監督率いる日本の女子バレーボールチームが、一九六四年の東京オリンピックで優勝しました。大松監督はそのとき、回転レシーブを可能とするため、女子選手をしごき抜きました。あまりに厳しい練習に、「女子をあんなにしごいて、人権を無視しているのではないか」という批判もあったくらいです。

 しかし、世界一のバレーボールチームをつくろうと思えば、そういう常識を超えたトレーニングが要るのです。日本で少し強いくらいのバレーボールチームをつくろうという程度の目標なら、それほど過酷な練習も必要としないのでしょうが、世界一を目指すとなると、人並みはずれた厳しい鍛錬が不可欠なのです。まずは、何を目指すのかという「目標」が問われ、それによって必要とする「考え方」も決まってくるわけです。具体的に見てみましょう。