「子どもの幸福」を願っている、という親は、ほんとうに子どもの立場から見ての幸福を願っているか、親が「子どもの幸福」と考えることを勝手につくりだし、子どもが「幸福」だと信じることで、自らが安心したがっているのではないか、と考えてみる必要がある。子どもの苦労を見るのが苦しいので、それを避けようとしていることも多いのではなかろうか。

 最近、中堅のビジネスマンの人々が、私の本など「心」に関するものをよく読みはじめたとのことである。以前は仕事に忙しくて、そんな読書などしておれなかったのだろうけれど、それにしてもなぜ心の問題などをと疑問に思った。

 説明をしてくれた人によれば、これまでは一流大学を出て一流企業に勤めることが「将来の幸福」を約束されることだと考えていたので、自分の子どもたちにもその道を歩ませようとしてきたが、自分の今置かれている状態を考えると、そんな単純なことは言えないことがわかってきた。とすると、自分の子どもたちのほんとうの幸福を考えるには、どのような方法があるのか、その手がかりを何とかして得たいと、本を読むのだ、とのことであった。

 わが国のビジネスマンたちが「一流病」の害について気づきはじめられたのは、いいことである。一流大学を出て一流企業に勤めることが「将来の幸福」につながるなどというのではない。それどころか、そのために不幸になったたくさんの人に、私はお会いしてきた。「一流」という重荷が本人の個性や意欲を殺してしまうからである。別に「一流」が悪いのではない。皆の考える「一流」ということが基準になってしまって、その人が個人として考え、望むことがつぶされてしまうところに問題がある、と言うべきである。

 子どものほんとうの幸福を願うのには、どうすればいいだろう。もし、そうしたいのならば、「子どもの幸福」という名によって、親の安心や幸福を支えてもらおうとしていないかを、まず考えるべきである。

「子どもの幸福」の一番大切なことは、子ども自身がそれを獲得するものだ、ということである。とは言っても、それを「見守る」ことは、何やかやと子どものためにおせっかい焼きをするよりも、はるかに心のエネルギーのいるものである。

育児ノイローゼの要因となりかねない
「平均値」信奉と「悪」の過剰な排除

 昔であれば、日本は大家族だったので、育児に関する相談をする相手として、祖父や祖母がいたり、ときには親戚のなかの長老のような人がいた。父親、母親に育児のすべての負担がかかることはない。父親役、母親役をする人は、実父、実母以外にいろいろといたのである。現在の日本は急激に核家族化したのだが、そのことによって、父親、母親の役割が急に重くなったのである。その上、核家族になってしまったので、若い両親は相談するところがない。

 このような心配を大きくする要因として、「平均値」というのがある。例えば、三歳児の平均身長、平均体重というのがある。それより少しでも劣っていると心配になる。なかにはそれを超えると「太り過ぎ」と心配する人もいる。あるいは、五歳児の社会的発達はどの程度なのか、などという知識を仕入れてくると、それと自分の子とを比較して、どこかに心配の種を見つける。

 何もかも平均通りなどという子どもの方が珍しいのではなかろうか。心身の発達にしても、早かったり遅かったりしながら、その子どもなりの特徴を示しつつ伸びていくものである。「何もかも平均なんてことは、めったにありませんよ」とか、「このくらいの遅れは、全然心配いりません」とか、カウンセラーが言うだけで親は安心する。

 カウンセラーと言っても、専門的に訓練されている人はいいが、そうでもない「自称カウンセラー」の人が、逆に「お宅の子どもさんの○○は平均以下ですよ」と重大そうに言って親を不安に陥れたりする。これはもってのほかのことである。相談するときも相手を選ばねばならない。

書影『河合隼雄の幸福論』『河合隼雄の幸福論』(PHP文庫)
河合隼雄 著

 次に育児の相談で感じることは、子どもの少しの「悪」に親が過剰に反応することである。昔のように子どもが多く、親が忙しかったときは、子どもは適当に「悪」を体験しながら成長していった。こんなことを言うと、「悪を奨励するのか」と叱られそうだ。しかし、子どもの悪に対して厳しく接することは大切であるにしろ、すべての悪に対してそのようにすると、子どもはいじけてしまったり、あまりにも柔軟性がなくなったりする。

 それでは、どの程度の悪を見逃し、どこで厳しくするのか。このことも親は学習する必要がある。

 子どもがせっかく、その個性に応じて成長していくのに、親が固い標準を心につくってしまって、それによってノイローゼになるのは残念なことだ。子ども自身の育っていく力をもっと信頼してほしいと思う。