「子どもを不幸にする親」の“2つの間違い”とは?著名な心理学者が解説写真はイメージです Photo:PIXTA

人は誰でも幸福を求めているし、親は我が子に幸福になってほしいと願う。しかし、そもそも「幸福」とは何だろう。お金がない人にとってはお金がある人が、病気の人にとっては健康な人が幸福に見える。だが一方で、有り余るお金や高い社会的地位のせいで不幸になっている人もいる。そんな「幸福」を我が子に与えるための親の頑張りは、ともすれば空回りになりかねない。臨床心理のパイオニアである河合隼雄氏が、子育て世代に「幸福」を説く。本稿は『河合隼雄の幸福論』(PHP文庫)の一部を抜粋・編集したものです。

「満ち足りた生」を求めるのは
ユートピア幻想を追うのに近い

 人間の幸福ということについて、考えさせられることが多い。心理療法家という職業の私のところに訪ねて来られる方は、何らかの意味で不幸な状態になっておられる。その不幸を逃れて何とか幸福になりたいという願いをもって来られる。

 そんな方とお会いして、そもそも「幸福」とはなんだろうと考えさせられる。病気の人は健康な人が幸福と思っている。お金のない人はお金をたくさん持っている人が幸福と思っている。あるいは社会的な地位が高ければ高いほど幸福の度合いも増えると思っている。しかし、果たしてそうだろうか。たくさんのお金や、高い地位などのおかげで不幸になっている、と言いたい人もある。

 考え考えしながら、いろいろな人にお会いしていると、「幸福というのが、そんなに大切なのだろうか」とさえ思えてくる。ともかく、それは大切であるにしても、幸福を第一と考えて努力するのは、あまりよくないようである。結果的に幸福になるのは、いいとしても、はじめから幸福を狙うと、かえって的がはずれるようなところがある。「幸福」というのは、何だかイジの悪い人物のようで、こちらから熱心に接近していくと、上手に逃げられるようなところがある。

 要は、かけがえのない自分の人生を、いかに精一杯生きたかが問題で、それが幸福かどうかは二の次ではないか。あるいは一般に幸福と言われていることは、たいしたことではなく、自分自身にとって「幸福」と感じられるかどうかが問題なのだ。

「満ち足りた人生」というのは、人間にとっての一つの理想像であろう。何も不足はない、いつも満ち足りた気持ちで一生を過ごせたら、それは幸福そのものなのではなかろうか。といっても、実際にはそんな生活はあるのだろうか。あるいは、どうすればそれを手に入れられるだろう。

 このようなことを考えるとき、私は昔話のなかに適当なものがないか、と探してみる。昔話は長い間にわたって人々が口伝えにして保持してきたものだけあって、一見荒唐無稽に見えても、なかなかの「民衆の知恵」のようなものを内包していることが多い。そんなわけで、いろいろと昔話を読んでいると、いいのが見つかった。イタロ・カルヴィーノ作、河島英昭編訳『イタリア民話集』(岩波文庫)のなかに「満ち足りた男のシャツ」というのがあった。その話をまず紹介しよう。