長徳二年(九九六)、国守となった父為時とともに越前(福井県)に下った。帰京後、山城守藤原宣孝(良門の子高藤の末裔)と結婚し、長保元年(九九九)、娘賢子をもうける。しかし、その二年後に夫は亡くなり、結婚生活はわずか三年ほどで終わった。以後数年間、式部は引きこもりがちで、ぼんやりと物思いにふけり、花の色や鳥の声、霜や雪によってかろうじて四季の移り変わりを知るような状態が続いたという。沈んだ生活を送る中で、式部は物語執筆への思いを強くし『源氏物語』を書き始めたといわれる。

 この『源氏物語』が高く評価されたことが縁となり、寛弘二年(一〇〇五)頃、一条天皇の中宮彰子に仕える。内気な式部が出仕を決意した動機は明らかではないが、父為時の出世を願う気持ち、自身の学才を発揮できる場であること、『源氏物語』をよりリアルに描き込むための見聞の場として宮中を見たいという思いがあったともいわれる。

 当初、父の官職にちなんで藤式部と呼ばれたが、やがて『源氏物語』の人気を受け、ヒロインの紫の上の一字をとって紫式部と呼ばれるようになったといわれる。本名は不明だが、寛弘四年の女官除目で掌侍となった藤原香子と同一人とする説もある。