日本史の偉人たちを「すごい」と「やばい」の2つの視点から紹介する書籍、『東大教授がおしえる やばい日本史』が話題になっている。
当初は児童書として発刊された本書だが、なんと読者の半数は大人。意外と知らない日本史の真実がウケて、20万部突破のヒットとなった。(初出:2018年12月23日)
「紫式部」のここが“すごい”!
大ベストセラー小説『源氏物語』を書いた天才作家
紫式部はとてもかしこく、当時の女性は学ばないはずの漢文や漢詩もスラスラと読み書きできました。歴史にもくわしく、その才能は一条天皇にもほめられるほどだったとか。
でも、あまりに目立っていたためか、職場の仲間からは「日本史オタクのインテリ女」とねたまれていました。しかし、紫式部はそんな批判をものともせず、小説『源氏物語』を書きはじめます。
すると、これが大ヒット! 当時の最高権力者であり、大の文学オタクでもあった藤原道長にも認められ、紫式部は道長の娘・彰子の女房に抜てきされます。
天皇と道長を味方につけた紫式部をいじめる人は、もはやいません。嫉妬を実力でねじふせたのです。
『源氏物語』は、ハイパーイケメンの光源氏が、多くの女性と恋をするロマンス小説。登場人物はなんと100人以上います! それなのに矛盾がなくリアリティのあるストーリーで、現在に至るまで1000年以上も人気がおとろえていません。こんな小説は、世界に類を見ないそうです。
じつは、あの織田信長や上杉謙信も『源氏物語』の愛読者。その後も瀬戸内寂聴、林真理子、角田光代などの流行作家によって何度も現代語訳され、マンガや映画にもなり、ファンを増やしつづけています。
「紫式部」のここが“やばい”!
清少納言に夫をバカにされてブチ切れる
紫式部と清少納言は同時代の作家ですが、宮廷にいた時期がかぶっていないので顔見知りではなかったといわれています。それなのに、紫式部は清少納言のことを、日記の中でさんざんディスっています。
紫式部が、会ったこともない清少納言を大きらいになった理由。それは、清少納言が『枕草子』に紫式部の夫・藤原宣孝の悪口を書いたからです。
しかも、宣孝が死んだ直後という最悪のタイミングで。亡き夫をバカにされて激怒した紫式部は、主人の定子が死んで落ち目になった清少納言のことを、さらにムチ打つことでうさ晴らしをしていたのでしょう。
ふたりがお互いのことをどんなふうに書いていたのか。ここにざっくり現代語訳して少しご紹介します。
「つまらないよ。神様は粗末な服で来いとは言ってないじゃん」と言って、紫とオレンジ色のハデハデな服で現れたの。
みんなあきれていたわ!
by 清少納言
じまんげに漢字を書き散らしてるけど、よく見たら間違いだらけ!
人より偉いとかん違いしてるヤツは落ち目になるに決まってるのよ!
by 紫式部
紫式部をムカつかせたのは清少納言だけではありません。『源氏物語』が完成したといわれる1010年ごろ、藤原道長が自宅で大宴会をひらき、紫式部も招待されます。
ところが、そこでよっぱらった道長に追いかけまわされ、むりやり和歌をよまされたのです。そのうえ、よった貴族が「紫の上はどこ~?」と、からんできたため、紫式部はブチギレ。
紫の上とは『源氏物語』に出てくる光源氏の妻で、絶世の美女のこと。紫式部はのちに、「光源氏のようなすてきな男性がいないのに、都合よく紫の上みたいな美人がいるわけないじゃない!」と日記で毒づいています。
ちなみに、紫式部は誰に対しても毒舌なタイプだったようで、歌人の和泉式部に対しても「無知のわりにはけっこういい歌書くのよね。ま、わたしほどじゃないけど」と、辛辣なコメントを残しています。
時代:平安時代
身分:女房、作家
出身地:京都
別名:日本紀の御局
平安時代の作家。子どものころから知的だった。1001年に世界最古の長編小説『源氏物語』を書きはじめ、大人気となる。
(本原稿は、東京大学史料編纂所教授 本郷和人監修『東大教授がおしえる やばい日本史』の内容を編集して掲載しています)