山崎パンが素早く復旧できた理由
準備が「想定通り」に生きた

 自動車や電機など大手製造業では今回、熊本や大分の現地部品工場が被災し、完成品の生産にも支障が生じるという事態が「想定外」の広がりを見せた。

 さらに、製パン他社が熊本市やその周辺に構える工場は、操業再開が遅れているという。こうしたもたつきを横目に、山崎製パンが素早い復旧を果たせたのはなぜか。

 1つは、日頃から取り組んできたハード・ソフト両面での危機管理への準備が、「想定通り」に生きたことが挙げられる。

 実は、山崎製パンは今から40年以上も前の1973年7月、当時のパン工場としては国内最大・最新鋭であった武蔵野工場(東京都東久留米市)を失火により全焼するという苦い経験をしている。人的被害は奇跡的になかったものの、大手スーパー各社などから注文を受けた大量の製品が生産・供給できなくなるという、会社存亡の危機に直面した。

 このとき同社は、武蔵野工場の受注分を関東周辺の各工場が昼夜フル回転することによりカバーし、火災から3日目には代替生産を軌道に乗せて、通常通りの受注と供給が出来るようにしてしまった。焼けた工場建屋も直ちに再建に取り掛かり、同年12月には再稼働を果たすという回復ぶりをみせた。

 この体験により、同社には「どんな試練や困難に遭遇しようとも、注文のあった製品をお客様に届けることに全力を挙げる、という考えが全社に根付いた」(山崎製パンOB)。

 86年1月に関西ヤマザキを吸収合併して国内製パン業界でシェア4割というガリバー企業となってからは、太いパイプを持つ農林水産省の意向も受けて、「食品企業として被災地への緊急食糧の供給は責務」(飯島延浩社長)と標榜するようになった。

 それが文字通り生きたのが95年1月の阪神・淡路大震災であり、2011年3月の東日本大震災であった。阪神・淡路大震災の時には、兵庫県と神戸市から食料供給の要請を受けて、大阪府吹田市と松原市にある自社工場の稼働を、全社を挙げてバックアップし、1月末までに100万個の寄付分を含む計270万個の菓子パンを、自衛隊の輸送協力を得ながら被災地に供給した。

 また、東日本大震災の際には、宮城県柴田町にある同社の仙台工場が地震によるライフラインの途絶によって停止。関東地区の各工場も計画停電や一部原材料の不足などの影響で安定した生産が難しいというなか、無傷であった中京以西の各工場がただちに食パンや菓子パンを、またグループ会社もおにぎりを増産して、政府並びに各自治体から求められた緊急救援食糧を支援物資の集積所や避難所に届けた。

 地震発生から1ヵ月間に山崎製パンがグループ会社分を含めて被災地に提供した食料は、パンが864万個、おにぎりが244万個、菓子類が46万個に上ったと同社の資料は語る。