彼は人とふれていない。「俺は神だ」と言うことで現実を乗り切ろうとする、それは憎しみが原因である。
彼は「僕は常に他人に自分を良く印象づけようとしています」と言う。そういう形で自信のなさが表れる。
その一般的な表現が、神経症的非利己主義である。だから神経症的非利己主義の人は、人間関係で抑うつ状態になるのである。
さらに彼は次のように言う。
「僕はいつからか誰に対しても敬語で話すようになってしまった。例えば同じ学年の人に『電話番号は?』と聞けばいいところを『お電話番号を教えていただけますか』などと聞いてしまったりする。実行力の欠如である」
こうした卑屈な言動をするたびに彼の無意識の領域に怒りが堆積していく。それが「俺は神だ」という姿勢となって表れる。不必要なまでの低姿勢が、心の底での怒りとなり、それが「俺は神だ」という形で表現されてくる。
高慢な態度と卑屈な態度は同じコインの表と裏である。
彼は、今自分がしていることをこつこつしていれば道は拓けるのに、「俺は神だ」と言わなければ現実に立ち向かえない。そこで毎日が怖い。
彼のようなナルシシストは殺人者に囲まれている世界に住んでいる。「俺は神だ」と言ったら幸せになれないということが理解できない。幼児が狭い世界の中で「自分が一番偉いぞ」と言うのと同じである。
こういう人は仲間に好かれようとして、結果として皆から嫌われる。
人間が生き方を間違えるのは、怒りの感情の処理の仕方と、苦しみへの態度である。苦しみへの態度を間違えると、解放と救済に通じることはない。
スーザン・コバサは、シカゴ大学で逆境の中でも健康で乗り切った経営者を研究した。
そういう経営者は逆境を自らへの挑戦と受け取った。それは何も経営者ばかりに言えることではないだろう。主婦にも学生にも言えることである。
加藤諦三 著
誰の人生にも逆境はある。いや多くの人の人生は逆境の連続である。
「苦しみは解放と救済に通じる」(*注1)。ということは神経症的要求を捨てなければ、救済はないということである。
要するに、病んだ心からの要求を捨てるということである。
そして神経症的要求を捨てることは苦しいが、それを捨てれば救済されるということである。本当の意味で心理的に楽になるということである。
神経症的要求とは、「私は変わるのは嫌だが、今の自分を救え」という要求である。
Alfred Adler, Social Interest: A challenge to Mankind, translated by John Linton and Richard Vaughan, Faber and Faber LTD, pp.120-121